その日はもう、夕暮れ前から冷たい風は吹いていた。寒さを防ぐ為に洞穴では自然と寄り添いあっていた。薄い毛布を分け合って少しでも近くにいようと、溶け合おうとでも言うかのように、頬を触れ合わせていた。吐息。わずかな息も、その熱を空気に落としていくのだった。けれども触れていれば温かい。ほのかな温みが確かに伝わってきていた。空気は冷たく寒いのに、その温かみのせいか、とても眠たかった。
とても眠たかったが、話をしてくれとせがむと、あなたは訥々と一つの物語を話してくれた。それは、なくした腕を探し回っている男の話で、どこかで聞いたような気がすると思いながら耳を傾けていた。
あなたの声は静かに耳元で聞こえていた。暗く、夕闇の中で沈んでいくようだった。なくした腕は見つからず、男も暗闇の中で探しつづけながら途方に暮れたのだ、と話を結んだ。
それで、もう一つの腕はどうしたのと尋いた。とても眠たくて、それは突拍子もない質問だったのだろう。あなたはしばらく応えなかった。それから微かに頷いたように感じた。
何故なら、もう日は沈みきって夜の闇が洞穴を満たしていたからだ。ただ、寄り添っていたので、僅かな動きが、頬にだけ伝わってきたのだ。
間違っているのかもしれない。
もう一つの腕で探してみたら、蝋燭を燈してみたら、と訊いてみた。
あなたの温かさはとても近く、あなたはその言葉を全部吸い込んで行った。
冷たい空気は更に鋭さを増して行った。目を上げて洞穴の外を見やると、外には雪が降り始めていた。雪は次第に激しく降り始めた。雪が激しく降るなどということは初めて見たので、それから目が離せなかった。
あなたは言った。それでもやっぱり冬はというより雪が何もかもを清らかにする雪の来るのを待っているのだと。
雪の季節を待つ人々。
雪が降ればいい。雪が、最も美しい雪が降れば。
触れているあなたの温かさは優しく、もう、眠りを妨げることはできなかった。結晶世界を語る言葉を聞きながら、目を閉じる
夢の中で、不意に体が熱く、重苦しいように感じていた。熱が出ていると思った。これは熱すぎる。苦しすぎる。きっと火に近づき過ぎたのだ。(もうとうに火は消えていたというのに。)
あまりの熱さにたまらなくなって、毛布を抜け出した。
その時、あなたがいないことに気づいた。
あなたの赤い外套も見当たらなかった。
洞穴の外は月光だった。雪は止んでいた。白く、あまりに白く荘厳な、何者も許さないような雪原が広がっていた。
冷たい雪に触れて熱を醒ましながら、前へ進む。どこかにあなたの赤い外套が見えたようにも思う。けれども、雪の冷たさが心地よくて、そのまま、前へ前へと歩き進んでしまった。
そして、ぽつりとあたりを見回すと、再び降り始めた雪野原にはもう、今来た足跡すらなく、どこから来て、どこへ行くのかは決して分からないのだった。
ただ、純銀の精髄があたり埋め尽くしているだけだ。
そのまま倒れ、あなたが遠ざかって行く後姿を見ていた。
洞穴で雪に埋もれて発見された時、傍にはあなたの姿はなかった。外套も靴も足跡も何もなかった。あなたがいたということすら、誰も知らないようだった。興味がないようだった。
あなたのことは話せなかった。
幾度も幾度もあなたの貌を観想する。あなたはある時はほほ笑み、ある時は涙を流している。腕をなくした男が彷徨っていた世界の物語を語る。雪の純粋さを語る。
それから南の国へ下ったのだ。
あれはもう、随分以前の物語なのだ。もう、凍傷の跡も残ってはいない。
ある日、部屋に二人で座っていた。語る話もなく微笑だけで並んで座っていた。
と、急に空が暗くなり雨の音がした。雨だろうかと立ち上がって窓辺に行くのを見ていると、歓声を上げて早くお出でと呼ぶのだ。雪だよ、と指し示す。
窓に近づいて見ると、雨には硬く小さな霰が混じり、ガラスを叩きつける音がリズムを取っているのだった。
雪など見たこともないに違いない、僅かな霰を嬉しげに笑って見ている様が愛らしかった。振り向いてにっこりとするのに微笑を返した。ああ、雪だねと。
振る筈はない。
雪など降る筈もない。降る筈のないところまで来たのだ。
けれども、そうだ、もしも本当に雪が降るのならばいいのに。雪が、全てを覆い尽くす雪が降ればいいのに。
暗い窓の外を見ながら、未だ。と呟くと、それを耳に留めて、何が未だかと問われた。未だ 。
いいえ、いいえ、リヤン(何も)。
もう、雪は降らないのだ。
いいえ、いいえ、もう遅すぎる。
純銀の、何よりも純粋な白雪に埋もれた広大な平原。一切の音を奪い尽くす、穢れを清めるあの冬。最も寒い国の…。
白い雪の中に一点の緋色が燃えている。血の紅。あれはあなたなのだろうか。あなたを殺してしまったのだろうか。白い雪の中を行く紅の…。どのようにして失ってしまったのか。
吹雪。睫毛も息も凍り、もう、目を開けていることはできない。いつ、この雪は止むのだろう。いつ、この吹雪は来るのだろう。
まるで、何もなかったかのように、紅を埋め尽くして雪は全てを覆い隠していった。