星の出かかった夕闇の海辺を一人の僧が歩いていた。僧の手には、小さな包みがあるだけで、吹き寄せる海風は冷たく薄い衣をはためかせ、細かな波飛沫が伏目がちの瞼に突き刺さった。
もう、当に、日没の刻限は過ぎていた。きっと、宵闇の刻限までは待っていてくれるだろう。それならば、潮の加減もそうは変わるまい。そう思ったが、僅かな不安に胸は締め付けられていた。間に合わなかったらどうなるのだろう。それでもおそらくは、明日の日没まで待つだけのことだ。きっとすぐに機会は訪れるだろう。
だが、僧は一刻も早くと願っていたのだ。長い間。
随分と長い間歩いてきたと、僧はふと思った。長い間だ。だが、それがいつからなのかを思い出そうとすると、言い知れない恐怖のようなものが心臓の辺りから沸き起こり、分厚い布切れを裂く時のような音が耳に響いて、僧はただ、一人口の中で「止めろ止めろ止めてくれ」とだけ呟いているのだった。
仕方がない、僧は寒さでぼんやりしそうになる頭の片隅で思った。思い出すのではない。ただ、知るだけにしよう。
そうだ、四年だ。年数は数えられるようだった。四年間だ。その間、ずっと、歩いてきたのだ。約束の時刻に間に合うようにと、足を急がせて。
けれども、僧は知っていた。これが始めての約言ではなかった。今までにも、何度となく機会はあったのだ。けれども、それを全て失ってしまったのだった.。
僧は、もう、思い出したくなかった。ただ、歩かなければ、歩かなければと考えた。とにかく、歩けば今度こそは約束に間に合うかも知れないではないか。宵闇の刻限に着けるかも知れないではないか。
砂浜は長く、僧の擦り切れた靴は白い細かな砂で真っ白になっていた。僧は時々、貝殻を踏み砕く。海の波の音は寄せ返し寄せ返し、騒めく。煌煌と照る月が椰子の木の上に昇ろうとしている。空は紺碧に輝き、星々のきらめきは数え切れぬほどになってきていた。
何度も遅れてしまったことを許してくれるだろうか。僧は思う。あの時、扉を叩くのが遅れたことを、あの時、足を踏み出すのが遅れたことを、許してくれるだろうか。罪深さに僧は震える。
一体、まだ、待っていてくれるのだろうか。
もう、何年も、そうだ、四年だ、と僧は思う、四年も待たせてしまったのだ。待っていてくれるのだろうか。変わらずに約束は有効なのだろうか。
たとえ待っていてはくれなくても、僧は行かねばならないのを知っていた。どのみち行くしかないのだ。それなら、今だ。きっと、今なら呼んでいてくれる筈だ。
時が経てば経つほど、僧は早くは歩けなくなるのを、約束に間に合うことが出来なくなるのを、呼んではもらえなくなるのを知っていた。
だから、早く行かなければ。もう、既に、随分長い間待った。今度こそ、間に合わなければ。
向こうの方に、暗闇の中に、ぼんやりと尖塔が立っているのが目に見えた。聖典の唱和が遠くから聞こえてくる。うねるように、導かれて、聖句を繰り返しているのが聞こえた。聖句は空に立ち昇り、月へと漂っていく。
ああ、まだ間に合う。まだ、祈りの前だ。宵闇の祈りの刻限にはまだ間に合う。あの唱和について行くのだ。
僧は、尖塔を目の当たりにするまで、足を速めた。
その時、尖塔が強い光を放ち始めた。まるで燃えるような白銀の光に包まれて、唱和する声が、藍碧にたゆたう海と、銀の雫で満たされた濃紺の空に向けて溢れでた。月を星を波を砂を貝を木々を、全てのものを、宝玉の言葉で、祈りへと法悦へと誘った。宵闇の刻の祈りへの誘いが訪れたのだ。
僧は、その美しさに立ちすくんだ。魂の全ては歓喜に満ちて、尖塔を見上げていた。天上までその唱和について昇華する。尖塔の光はその顔を真っ蒼に照らし出していた。
尖塔の光が消えた時、僧は、夕闇の刻限が去ったのに気づいた。
僧は走った。今、そこに、目の前に見えている。
けれども、船は岸を離れるところだった。僧の目には、懐かしい面影が浮かんでいるのが映ったように思えた。けれども、もう、呼び声も届かぬところまで、船は流れていた。
僧の目から滂沱と溢れる涙は、あごを伝い、僧の衣を濡らした。僧には声はなかった。ただ、無声の叫びを発するだけだった。今しがた、あの光輝に照らされていたのに。あの歓喜に捉えられさえしなければ、きっと、間に合ったのに。
僧は、去っていく船を見送りながら、それと同時に、あの光輝に満ちた歓喜が、僧の身体になおも響いているのを感じていた。