■ Les chansons d'Alphabet ■

 
 
 
Crepuscule

 
P
D
S
N
C


 
無花果の園

正門

  目覚めると、ちょうど良い頃合だった。午後の中心。これからが一日の始まりだ。もうすぐ、翳りが始まるのだ。そして、全てへの扉が開く。黄金の扉。
鳥の鳴き声が、「捨てられた森」の合間から零れてきていた。「捨てられた森」は、幾つも連なる建物の廃墟群だ。とても旧い、先人の名残だ。
鳥の声はわずかに甘い。夕暮れまではまだ、少し間があった。蜜を含んだ午後だった。瓦礫に足を取られながら、慣れた道を辿る。塔の入り口に辿りついた。

扉は重く閉ざされているように見えるが、実は、扉の下の細い隙間に薄い金属(かね)を差し入れると開くのだ。
油の切れた蝶番の音に思わず顔を顰める。肩をかけて扉を押し開けながら、今度こそ、油を持ってこなければと思う。しかし、ここに来る時はいつも心が逸っていて、そんなことは忘れてしまっているのだ。
埃の積もる階段を息を切らして上る。
いつも、これが一苦労だ。何故、先人はこういうところには工夫を凝らさなかったのだろうか。他のものは、精緻を極めた銀細工よりも猶も細かな仕掛けが施されているというのに。
ことによると、体そのものが、塔に最適化されていて必要がなかったのかもしれない。
先人のことでは、まだまだ分からないことが多い。読み解いていない書物は幾多も残っている。それに全てを知ることは多分出来ないだろう。生涯は短く、言葉ですら全ての言語を覚え尽くすことは出来ないのだから。
それよりも    この扉を開ける時は、いつも甘い戦慄が走る    まず、この部屋にあるものの意味が知りたい。

この部屋だけは、埃を払ってあった。
簡素な木製の机の上に、黒い艶消しの四角な箱。円く回す種類のスウィッチや、四角い押すスウィッチなどが飛び出している。
繋がっている灰色のすべすべした太い線が幾本か、窓枠の外へ出ている。それは尖塔の上の方へ繋がっているのだ。
一台の小さな置物に、硝子の羽根がついたものが接続されている。その繊細な羽を壊すのが恐くて、それにはまだ、触れたことはなかった。
いつのことだったろうか。最初にここに入ったのは。
並んでいる釦に触れているうちに、急に何かが甦ったのだ。恐る恐る丸い輪を回すと、命が通った箱から、夜空に満たされた音が流出したのだ。それは言語ではなかった。否、言語だったのかも知れない。けれども一つも分からない言語だった。機械の歌声。旋律なき旋律。脈動。
星が全て夜空から落ちて、地に散らばる時に立てるのではないかと思うような音。
それが一体どこから来たものなのか、今でも分からない。
ただ、夕暮れに開く空の扉の向こうから、光の布が少しづつ広がるように、その音の波は来るのだと、それだけを知っていた。

そして、その夕暮れも同じように、釦を押し、扉を開こうとした。
その時、初めて、手が硝子の羽根に触れてしまったのだ。
と、甲高い音が、それだけが、流れるのを聞く。
慌てて手を放すと止んだ。また、そっと指先を当てると、済んだ音が鳥の囀りの様にきらきらと鳴る。
再び手を放した時、あの、いつもは遠くからゆっくりと広がる呟きのような音が、今日は一斉にやってきたのを聞いた。星だ、流星群の言葉。
もう一度、羽根に手を触れた時、まるで生きているもののように、それは震えた。それとも指が羽根を叩いているのだろうか。呪縛。夢中。一切の感覚は遠ざかり、ただ、震える羽根と、耳だけがそこにあった。
甲高い鳥の囀りが手から黄昏の空中へ流れ出して行く。迸る。止む。それに答えるように、澄み切った一つの音が響いてくる。砕けた言葉の、言葉が矢となって突き刺さる。呼んでいる。呼んでいる。
見るともなく見えもしない眼前には、ただ、濃紺の宇宙が広がっているようだ。夢見るように羽根に触れ、閃く音は、空から零れ落ちるがまま。翼持つ蛇のように、手が羽根に触れているのか、手に翼が生えているのか、音を聞いているのか、音になって激しく流れて行くのか分からなくなる。

魅せられて、扉の僅かな隙間をかいくぐる銀滴の応答。部屋には小さな蒼い光が輝いている。無言の神との接触。おそらくは、空中にひしめく魂との。
幾時が流れたのかは知らなかった。黄金を溶解して、太陽は地へと沈んで行く。廃墟の瓦礫の上へ一筋の光を投げているだけだ。
その時、僅かな軋みがあった。ため息のようにして、ガラス球が砕け、蒼い光が途絶えた。
同時に、ゆらゆらと揺れていた、箱の中に閉じ込められた細い針が、冷たく戻って死んだ。音楽は止まり、全ては終わってしまったのを知った。
静寂の中、死んだ川の流れのように、ただ、白い音。
もう、もう、何も、何一つ蘇えっては来ない。過去の黄金の時刻も、亡霊の清い澄明な呼び声も、もう、全てが去ってしまったのだと知った。
行ってしまった。行ってしまった。先人たちと共に。
もう二度と戻っては来ない。

そして太陽の光は完全に消え、夜が宝玉の冷たい夜が降り注ぐだけだった。
 

Crepuscule◆黄昏
 
 
無花果の園
正門