■ Les chansons d'Alphabet ■

 
 
 
Parfum

 
P
D
S
N
C


 
無花果の園

正門

  誰もが知っているのに、その人だけは花の名前も知らないようだった。冷たい銀と柔らかな翡翠。その人はどんな狂騒の中でも静かだった。熱風の最中では、冷たい泉の水の中に、人は激しく幻想を投影するものだ。ましてや幾日も続く砂嵐の最中では、奇妙な偶像が光りを帯びる。冷たい銀と柔らかな翡翠。
もしも香水がきつくなければ? それもまた過ぎ去った疑問でしかない。

一壜の香水を買い求めて使い始めたのは秋だった。冬も間近く、その甘い香りが寒気の中では豊かな赤い果実のように思えた。花には花粉がたっぷりとついていて、砥の粉のように撒きあがり、つねに青金色に霞んでいた。
閉ざされた山に住んでいたその頃、噂とはすぐに広まるものだった。
舞い上がった花粉は行方定めぬまま流れてこぼれた。
その香水は何故か気に入って、いつもつけているようになった。そのうちに皆が覚えて私の匂いだと言うようになった。

ある時、ある人が言った。
でも、貴方の香水は強すぎるね。
そっと言った。
その言葉に痛みを覚えて、そんなにも強いのかと問い返した。そんなにも明らかにされているのかと。
けれども、花の名前も知らない人は。霧にも似て流れる瑞雲を認めているのかいないのかすら分からなかった。
ただ、時々ねと応える。
何と言う冷たさだろう。
冷たい銀…。頬を押し当て熱を冷まさなければ。冷たい銀と柔らかな翡翠。

今、埃だらけの街の中では。濃厚な香油を塗りこめたアラブ人で満ちている。喧騒と猥雑。豪奢であればあるほど美しいとされる絢爛の美学。その中では私の香水などは何ほどでもなかった。淡く立ち昇って消える一条の煙のようだった。もう今は思い出すことなどないだろう。

最後にその人からもらった紙の一枚にアラビア語が記されてあった。あの、ゆったりとした囁きに近い静かな声が思い出された。冷たいような言葉の中に含まれた柔らかな響きが耳のうちから呼び起こされた。
私には読めないその文字を眺める。読めない文字は唐草文様のように絡みついて締め上げる。

夜、香水をまとって眠りに落ちると、夢を見ることがある。その人は喧騒の中を歩いている。突き刺す警笛と騒擾の中を静かに歩いていく。そのまま去っていくのだろう。これは一瞬の照り返しのようなものだ。どんなに強烈でも、すぐに失われてしまう。
そのまま去っていくのだろう。
そう思いながら、たたずんで見送っている。
すると、不意打ちのように、振り向いて、微笑むのだ。微笑んでそして人影にまぎれる。
あの一瞬の光彩。
淡い香気が立ち昇り、今は消えていった。
 

Parfum◆香水
 
 
無花果の園
正門