日時計
 
あなたは笑みを浮かべて近づくと、泉のはたに腰を下した。そしてきいた。何年待った。わたしはこたえる。いいえ、ただの二時間。
わたしはいつから待っていたのだったろう。
木もれ日があまりにゆらぐので、あなたの顔は不可思議な幻燈のなせる技のように見えた。髪は白いのに、まなざしは炎のようで子供のように澄んでもいる。そんな顔立ちだった。何にせよ、少しも似てはいなかった、泉の中の幾多の顔には。
どこから来たのときいた。あなたは答えた。ああ、呟くような深い水の中から響くような懐かしい声で。世界を回ってきたよ。
わたしはたずね、あなたは聞かせてくれた。あなたの見てきたものを。葡萄の蔓の何と早く伸びるものかを。蜜に酔った熊が眠る時の姿を。また海から飛びだすきらめく銀の魚の鱗の匂い。またかき鳴らされるヴァイオリンの疼くような音を。旅をして暮らす人々の夢の言葉。石造りの冷たい家々の壁の手ざわり。血を啜って生きる者の噂。あなたは語った。あなたの声は森の中に落ち、砕けた石に降り積もっては溶けていった。
語るにつれて、日は落ち、あなたの姿は闇に沈んでいった。あなたの声がささやきに変わり、言葉が滴るだけになり、木もれ日が消えていくように、そして。風が吹いて、さらりと砂が舞い散った。あなたは崩れ、こぼれ落ちてしまった。
靜かな闇だけが残る。
こうして、あなたは行ってしまったのだ、もう。
またねと言う声を聞いたような気がした。
日は落ち果て、森の中は闇。待つための道具はすべてを計り終えて沈黙する。刻まれた徴の上を耐えがたくゆっくりと動いていったあの影が、きっと今やすべてを覆いつくしてしまったのだ。時は来た。この緑のとぎれることない蔓のように。
わたしは立ち上がり、森を後にした。次の約束まで。
眠りかけた声のアナウンス。「ローマ発エアフランスAF179便は定刻通り、午前4時10分に到着します。到着ゲートは2Bです。」
話し声は後少しだと言う。空港で明かす一夜。電光がフラッシュして便名を読み上げていく。きっと。もう直ぐ。訪れては去る人々の足音が行き交う。流れるカートの車輪の音。腫れた目と落ち着かない指先をざらざらとした本のページに向ける。呼び声。

「ナラン」
ナランは草原を見渡した。声が聞えたのは気のせいだろうか。
何処までも青い月光。今や傾きかけながらも、天空の星全てを従えて下っていく冷たい王。豪奢な銀の刺繍を施した真緋の婚約披露の衣装を身にまとい、ナランは月下馬上にいた。今宵、消えた兄の代わりにナランは継嗣となった。夏の終わりには兄の婚約者がナランの花嫁となるだろう。
見晴るかす静かな草原。ただ遠く彼方に獣の遠吠え。
その時、草叢の奥にうごめくものを見出したナランは、馬の手綱を緩めてそちらへ向かわせてみた。飛び降りて見ると、それは闇の中に震えている白い毛玉。ナランはその耳を掴んで月光にかざして見た。兎の足についているのは、紛れもなく、兄の作った罠だ。約束通りに。それでは何処に?
ナランは草原を見渡す。「兄さん」
風が草原を答えもなく吹きすぎていく。
 
 
 
 
            FIN
 
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