日時計
 
水は澄みきった鏡。まなざしのようだと思った。見つめ返す顔。甘い笑みを浮かべているようだった。思わず微笑をかえす。泉に映る顔は想像だ。僅かな風のそよぎに揺らいでは表情を変える。優しいささやきは肯定。希求。激しい色のうつりかわり。自在に変化する顔にわたしはみとれていた。はかない映像に触れようと水に手をさしいれると水は砕けて、像は失われてしまう。波紋が去り、再び水に結ばれるのはまた別のまなざしだ。
あたりに散らばる岩や奇妙な形をしたものは、みんな蔦に覆われていた。それは泉のはたの空に突きでた三角も同じこと。折れ重なった瓦礫のあいまから、ただ一つ飛びだしたその鋭角な姿にも緑はからみつく。滴るような色をした葉と葉のすきまから、燐粉のように錆がこぼれ落ちてくる。緑と白い花のすいかずら。最後の王のための冠。
誰がこんなものを作ったのか。影は徴を指し示し、移ろっていく。時間を計るための。待つための道具が、今は森の最中の広間にすえられている。
静寂。何の音もしなかった。泉からころころと水が涌き出る音と風が樹木の葉をそよがせる楽の音以外は。甘い匂いは木の葉と樹液の匂い。つきまとうように立ち昇ってくる、その新鮮なかぐわしい吐息。水のまなざしが木もれ日に、また、ちらちらと踊り微笑んだ。
わたしは待っている。刻み目をもう一つ分、影は乗り越えようとしている。
不意打ちに響くアナウンス。午後11時35分着予定のアリタリア航空AT325便は欠航となりました。うめき声と籠もった騒めき。顔を見合わせる。アリタリア航空AT325便は欠航です。怒鳴り声が弾ける。カウンタに急ぎ向かう人々の足音。とまどい。苛立ち。電話の前には列ができる。吐息して身を起こし帰り支度。それとももう一杯のカフェ・ノワールを。退屈しのぎの本のページはぱらぱらと音を立てる。
次のトリポリ発はエアフランスAF811、当飛行機は午前5時25分に到着予定です。      。アナウンスは繰り返す。滑らかな早口は空港の待合ロビーを吹きぬけて行く。

兄がどうしていなくなったのかは誰にも分からなかった。人々は長の息子を数日間探し回った。しかし、狼の姿も見かけられず、勿論骨もなく、その上、彼の馬も一緒に消えてしまっていたことから、きっとこの一族を抜けて、どこかの街にでも行ってしまったのだろうと皆が思うようになった。兄はもう17歳で大人だったのだから。
ナランもそうかも知れないと皆の言うことに従ったが、それでも、何故兄が一緒に兎罠を仕掛けに行こうと言ったのかが分からなかった。自分も一緒に連れて行こうと思っていたのだろうか。それとも何か言おうとしていたのだろうか。
婚約披露の宴の最中も、兄は上機嫌だった。婚約者の娘は十四歳で、大きな黒い瞳がまだあどけなさの残る顔の中できらきらと輝いていた。艶のある長い髪はお下げに編まれて背なに垂らされていた。豪奢な縫い取りの上着を着て、その小さな手を膝の上に重ねて兄の隣の席に静かに座っていた。耳から下がる銀の羽の耳飾りが、頭を傾げると、しゃらしゃらと音を立てるのに耳を澄ませているようだった。唇は早咲きの薔薇のように紅で彩られ、僅かに笑みを形作っていた。その大きな瞳は、ずっと兄を見ていたのだ、宴の間中。
人々はアリヒを飲んで、包子を食らった。歌と踊りは夜更けまで続いて宴は終わった。もし、兄がいなくならなければ、一月もせずに、今度は婚礼の宴があった筈だった。屠られる羊ももう決まっていた。
婚約者の娘は、人々が取り沙汰する間ただ俯いていた。その唇は色あせた花びらのようで、もう微笑んではいなかった。
兄が戻るのを待つかのように、一月の間、夏営地に人々はとどまっていた。しかし、山脈からは冷たい風が吹き降りてきて、彼らは移動を始めたのだ。羊を追って南へと。
ナランは兄は何処へ行ったのだろうと思った。今まで兄は約束を破ったりするようなことはなかったのに。兎罠を仕掛けて、ナランをきっと待っていた筈なのだ。
草原には冷たい風が吹き始めていた。月光は蒼く、静かにあたりを照らし出している。
静寂。わたしは泉から目を上げる。
ふいに、木立が揺らぐと、その中から一つの姿が現れた。崩れた石を踏んでやってくる。あなたはとうとう、やってきたのだ。
約束の時刻だ。
 
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