假名遣に關する論考

假名遣とは

假名とは、漢字を受け入れた我等が先達が、我が國語に沿ふやうな表音の表記をする爲に、漢字を崩して拵へた文字であることは、敢へて書く程のこともない、常識である。

假名遣とは、國語の發音が、時を經るに從つて變化し、假名がつくられた當初の發音と乖離した後に於いて、語を假名で表記するときに如何に表記すべきかの規範となるものである。

この假名遣といふものは、藤原定家や契沖などの先人が整理し發達してきたものであるが、彼等が何もないところからつくり出した創作物ではない。實際にそれまで書かれたものの中に假名の用ゐ方の規範を見出だし、抽出して示したに過ぎない。かくして整理された假名遣に於いては、語に基づいて用ゐるべき假名が定まる。

ところが、昭和21年に公布、實施された「現代かなづかい」及び其れを改定した昭和61年の「現代仮名遣い」(以後、總稱して「現代仮名遣」と記す)は、かうした假名遣の歴史的な積み重ねを否定し、現代語音に基づくものとしてつくられた。「現代仮名遣」は、語に基づいて用ゐる假名が定まるといふ假名遣の原則を破壞し、語の音の通りに假名を竝べるといふ原則を採用した。しかし、例外が多く、長音の表記などは、とても音に基づくなどと言へたものではない。こんないい加減な半端ものを假名遣と呼ぶのは、假名遣に對して失禮である。

以下、「現代仮名遣」が如何に根本を誤つたものであるか、述べようと思ふ。

「表音文字」の利用≠「表音的表記」

假名が表音文字としてつくられてゐること、それ自體は否定できないし、する積りもない。

しかし、假名が表音文字であることを以て、假名での表記を表音的にすべきといふ考へは、亂暴で、短絡的で、頭の惡いものである。

閲覽者諸子は、學校で英語を勉強させられたことがあると思ふ。英語は御存知の通りラテン文字といふ表音文字を遣つてゐる。それにも關はらず、英單語の綴りは全然表音的ではない。綴りと發音に乖離があることに苦しめられた人も多いであらう。

英語に限らず、ドイツ語もフランス語も、他の西歐諸語も、竝べてみれば文字の發音と、語の發音が完全に一致するといふことはない。そして、いづれの言語でも、表記を發音に合はせる爲に變更するなどといふ話は、終ぞ聞かない。

「文字通り發音しないと言つても、綴りと發音の間に何らかの法則はある」などといふ反論が來ることは、當然想定してゐる。其の通りである。西歐諸語でも、日本語でも、表音文字の表記と發音の乖離は、といふよりも其の原因となつた發音の變化は、全く無秩序に起つた訣ではなく、規則的に起つたのであるから。

西歐諸語の現狀を見ても分るやうに、表音文字を使ふからと言つて、その表記を「表音的」にしなければならない、といふことは、誰が言ひ出したか知らないが、全く短絡的な、頭の惡い思考の結論と言はねばならない。もし其れが正しい考へ方なら、英語やドイツ語やフランス語の綴り方を發音通りに變へるやう、お節介を燒いてやらねばなるまい。しかし、そんなことをしても、彼の國の人々は困惑するばかりであらう。

假名遣が表音的なるべし、といふ考へ方は、其れ位莫迦な考へ方である。

文章とは、「語」の羅列にして、「音」の羅列に非ず

文章とは、口で述べたところの發音をそのまま寫したものではない。意味を成すやうに、語を、言葉を、書き連ねるものである。

そして、文章は、別に音讀するとは限らない。無論、言語といふものは、話し言葉が先づあつて、書き言葉は其の後でつくられるといふ過程を經てゐるものである。しかし、其れが故に、話し言葉が主で書き言葉が從といふことにはならない。寧ろ、文章として形が殘る書き言葉の方が優越することも多からう。多くの語を漢語や他の外來語から移入してゐる日本語にあつては、書き言葉に先に導入されて其れが話し言葉に反映された言葉は結構な部分を占めてゐる筈である。

また、話し言葉にしても書き言葉にしても、其の構成要素は、語であつて、音や表音文字ではない。言語として意味を取るときに、音や表音文字は單に語を表すための便法である。音や表音文字そのものに意味はなく、意味は語に屬するものである。

表音主義の見落としてゐるもの

前節で、言葉の意味は語に屬すると書いた。其れを踏まへて、表音的な表記方法が持つであらう缺陷について述べる。

あくまで表音的な表記をするとすれば、或る語の發音が變化した場合、其の表記は當然に變更されることになる。さうすると、發音が變化する前に書かれたものを變化した後の人間が讀む場合に、支障が起るのは自明である。

或は、或る語の發音について地域差があつたとすると、或る地方で書いた文章を他の地方に持つて行くと、やはり支障が起る。

先に指摘した通り、意味は音には屬せず、語に屬する。或る語の表記方法を決めておくなら、或は或る語の表記方法が決まつてゐるなら、上で示した樣な支障は起らない。勿論、表記方法は、發音が變化しても變へてはならないものとなる。

表音主義は、今現在の話し言葉を表記するに當つては簡便なのかも知れないが、折角表記したものが後世まで遺つたときに、どういふことが起るのか、といふことについては、まるで無頓着である。實に刹那的と言へよう。

「現代仮名遣」のいい加減さ

「現代仮名遣」は、概ね表音的である。概ねと書いたのは、一部の助詞について歴史的假名遣での表記をそのまま遣つてゐることや、長音の表記方法が音を表してゐるのかどうか疑義があることによる。

かくも中途半端な代物はあるまい。表音主義に徹せず、一部の助詞を歴史的假名遣のままにしたのは、結局のところ、表音主義に無理があると告白してゐるやうなものである。また、長音の表記方法についていふなら、原則を自ら立てることもようせずに、歴史的假名遣の表記を借りてどうにか格好をつけてゐる始末である。

詰り、「現代仮名遣」は、歴史的假名遣がなければ、その據つて立つところのない、極めていい加減な代物である、と斷言せざるを得ない。

どうしてかういふことになつたのか。それは、完全に表音的なものを導入するとなると違和感が大きくて反撥を受けるから、日和つたのである。日和つたものを導入しておいて、馴染んできた頃から更に表音的なものにしようとしたのだらう。但し、そのシナリオは崩潰してゐる。昭和61年に「現代仮名遣」を改訂したときに、當局は、より表音的な假名遣に改めることが出來なかつた。そればかりか、前書きで、歴史的假名遣は尊重せられるべき、といふ旨まで書く羽目になつてゐる。歴史的假名遣の規則を持つてこないと、自らの規則について説明出來ないからである。

つまり、現代仮名遣は自らその出來の惡さを告白したと言つて良い。それでも現代仮名遣をあくまで殘して、一般に使はせようとしてゐるのだから、往生際が惡い。

結局、「歴史的假名遣」以外に遣へるものがない

「現代仮名遣」は、無原則で無秩序な代物であり、使用に耐へない。ただ、使はざるを得ない場面といふのがあるから、苦々しい思ひで使ふ時もあることを悔しいけれども告白しておく。

歴史的假名遣も、完璧で無缺陷、とまでは言へない。しかし、原則は非常にすつきりしてゐる。「現代仮名遣」よりも、合理的かつ論理的である。

誤解されては困るのだが、歴史的假名遣を用ゐても、口語文は普通に書ける。現に、今かうして書いてゐるから間違ひない。漱石の書いた小説も口語文だが、漱石は歴史的假名遣を用ゐて書いた。ただ、此の頃は「現代仮名遣」に直したのしか賣つてゐない。出版社は本當餘計なことをしてくれるものだと憤慨してゐる。鷗外も口語文の文章を書いてゐるが、これも文庫本では「現代仮名遣」に直されて了つてゐる。鷗外が表音的假名遣に反對してゐたのを知つてゐるので、さういふものを讀むのが辛くて、結局買はず仕舞である。

歴史的假名遣を用ゐるに當たつては、假名遣が語に從屬するといふ性質上、語について敏感にならざるを得ない。しかし、それは、文章を書く、文章で表現するといふ行爲にあつては、寧ろ好ましいことである。

現代の發音との乖離は、問題とする程のものではない。十分に規則的に、現代的發音が可能なのは、學校の授業で習つた通りである。

論者が歴史的假名遣を用ゐるのは、其の歴史的な正統性もさることながら、合理的であるといふのが一番大きい。繰り返すが、「現代仮名遣」は、結局、歴史的假名遣を否定することは出來てゐないどころか、歴史的假名遣がなければそもそも成り立たないものなのである。そんな出來損なひを、どうして好んで使ふことができようか。

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