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蘭の会 三周年記念 連載コラム

新 サルでもわかるレトリカル 会員番号000b 佐々宝砂



■ 第31回 愛ほど腐ったものはない
なんとなく先月と先々月の続きで今月も腐っております。それとゆーのもですね、私はこれを居間で書いてるんですが、居間ではテレビがついておりまして、夫が晩酌しておりまして、いちいちいろいろとうるさいんですわ。いや別に夫婦仲が悪いわけではなくて、ダルビッシュがほくそ笑んでるみたいに見える、なんていうかなりどうでもいいことに返事をしないでいると怒られるのであります。サルレトに必死な私にとってはダルビッシュ投手の笑顔などどうでもいいわけでありまして(ダルビッシュは好きだけどさ)、そんなことしてると、ただでさえ書けないのがよりいっそう書けません。ええとにかく書けないっ!なに書いていいかわかんないっ!と怒ってダダこねると読者が減ります。気をつけましょう私よ。いやあこんなところで愚痴るのもなんですが、詩だの日常雑感のエッセイだのは案外かんたんにほほいのほいで書けるものでありまして、このサルレトにしても、こういうてきとーな前書きならほほいのほいで書けます。

話にきく限りでは、詩を書くにも時間はあまりかけないという人が多いようです。私もあまり時間をかける方ではありません。即興的にほいほい書くことも多いです。ものすごく正直に言いますが、詩を書くのは、小説や論文を書くよりとっかかりが楽です。論文と違って調べ物をしなければ書けないということはありません。小説と違ってプロットがなくてはならないというものでもありません。かといって詩が小説や論文より下に位置するかというとそんなこともないだろうと私は思います。ただ、書くにあたっての実際的な労力は、詩の場合、それほど多くなくてすむ、それは事実です。

だけどもちろん労力をまるでかけないシロモノは、やはり面白いものにはなりません。いやいくら労力を費やしたとしても、労力の方向性が間違ってると面白いものにはなりません。詩作に関しても同じことです(やっと本題に入ってきたぞ)。自分の感性のまま書き散らしたってかまわんことはかまわんのですが、そういうものをひとさまに読んでもらって感動してもらおうったって無理というものです。まあ詩というものはたまたま「できてしまう」ことがあるので、いちがいには言えませんが。

やたら前置きが長いわりにすでに〆切を二時間過ぎているサルレト、今回のテーマは相も変わらず比喩、それも「腐りきった比喩」、凡庸な使い古された比喩について、です。いっときますがつまんないです。なにしろ凡庸な比喩について下調べしているだけで退屈して眠っちゃったくらいですから(〆切が遅れている言い訳)。で、下調べてして退屈したうえ何から書いていいかわからず自分が腐ってしまった私は、ダルビッシュ投手を見てなんたら言っている夫に、「つまんない比喩の例をあげてくれ」と頼み込みました。我が夫は昔の歌謡曲にむちゃくちゃ詳しいのです。つまんない比喩についてならさぞ知っているだろうと思ったわけなのです。

「きみのためになら死ねる、とか」
「それって比喩?」
「比喩じゃないかなあ」
「骨まで愛して、とか」
「それは別に凡庸じゃないよ、少なくとも当時はインパクトあった」

(注;「骨まで愛して」は最近森進一と「おふくろさん」で揉めてて有名な川口康範氏の作詞によるむかーしの歌謡曲。メロディと歌詞を知りたい方はhttp://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-honemadeaisite.htm参照のこと、MIDIが鳴ります)

「海より深い恋心、ってなんだっけ」
「そら『再会』だ」
「そういうの、凡庸な比喩だと思う、凡庸でもそこらへんまでいけばすごいんだけど」

(注;「再会」は吉田正作詞松尾和子歌のむかーしの歌謡曲。歌詞を知りたい人はhttp://homepage.mac.com/mfukuda2/iphoto109/iphoto109.html参照のこと)

「要するにくさくてベタで鳥肌が立ちそうな比喩がいいわけね」
「いやよかないけど、そういう例がほしい」
「じゃあ恋人岬に行って絵馬をみてこい」

なるほど! 恋人岬は我が静岡県の伊豆にあって、主に関東住まいのヒマな恋人たちがやってきて、愛情絵馬になにやら書いて置いてったり恋人宣言証明書をもらってったりしてる観光地です。愛情絵馬や恋人宣言証明書を見たことはないのですが、きっとあほーでベタなことが書いてあるに違いありません。とはいえ恋人岬に直接行ってるヒマなど私にはないので、ネットで検索してみました。そして死にました。興味がある人は検索してください。おすすめはしません。全くしません。いやもういいです。ごちそうさまです。げっぷがでます。っていうか比喩にすらなってねーじゃねーかーっ。

まあ愛のコトバとゆーものは、当の相手に通じりゃいいのであって、第三者はどうでもいいっちゃいいです。私だってラブレターにはベタなことを書きます。でも愛情絵馬にはもうちっと凝ったことを書くだろうな私は・・・だって、たとえ自己満足のために書くとしても、愛情絵馬は他人さまがみるもの。秘められたラブレターでも艶文でもないわけですよ。「私たちの愛は世界一」だの「お金たまったら一緒に暮らそうね」だの書いて何が楽しいんだろうか・・・いやまあなんか楽しいのでしょうきっと。

いやこんなことを書くはずではなかったのです。今回は「凡庸な比喩」「腐った比喩」がテーマです。そう思って恋人岬を見たのですが、そこにあるのは、恋人岬の土産屋さんが一生懸命考えた定型を利用してメモリアルを残してゆく普通のひとたちの普通のコトバでした。それがつまんないからって責めてはいけません。彼ら普通の恋人たちは詩人でも小説家でもないのです。土産屋さんも詩人ではありません。詩人ではない彼らが考え利用しているコトバは、実にありきたりで、凡庸な比喩以下のものですが、なにやら世の中の役に立っています(恋人岬は低予算で成功した観光地として有名です)。よく考えてみれば、ありきたりで凡庸だからこそ、誰にでもあてはまるのです。

それでいいのか、と言ったら、私には、わからないとしか答えられません。愛の表現は古くからあるうえに使い回されてすりきれて腐っていて、私はあまり使う気になれません。だけど使わなきゃならない場合は使わざるを得ないのであって・・・それを無理矢理に比喩で表現したりすると「海より深い恋心」なんていう大げさな表現になってしまったりするわけで、しかしそこまでゆくとある意味すごいわけです。海より深いだなんてあーたマリワナ海溝より深いんですかああそうですか。間違いなくすごいです。

今回は役立つかどうかよくわかりませんが、書く方は非常に苦労しました。サンプルをとっていて鳥肌がたったし。凡庸な比喩くさった比喩は、いつまでも私のまわりにまとわりつきます。あなたのまわりにも。詩を書いていて、この表現もしかして古くないかなと思ったら、あるいはどこかで聴いたことがあるようだなと思ったら、とりあえずGoogleで検索してみるといいと思います。案外ひっかかります。たとえば「海より深い」で検索すると約18,700件ひっかかります。「海より深い孤独」「海より深い愛」「海より深いモノづくり愛」だのよーわかりませんが実にいろんな人が「海より深い」という表現を使っていることがわかります。そのようなよくある表現を使って悪いとゆーことはないですが、そのような表現にはすでに手垢がつきまくっていることだけは自覚しておいてください。そして、最低限のマナーとして、既存の歌詞と全く同じ一行を使ってしまうようなことは避けてください。本当に最低限のことだとは思うのですが、インターネット上の作品を見ていると、ときに、既存の歌詞と全く同じフレーズを使っていることがあります。無意識にやっていることかもしれませんが、無意識だからといってやってよいこととは思いません。

今回は、なぜかマナーの話になってしまったので課題なしですが、まあ、いちおう内容はある・・・んではないかな。はい。

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会員随時募集中/著作権は作者に帰属する/最終更新日2007-04-14 (Sat)/サイトデザイン 芳賀梨花子

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