日時計
 
    時間が来た。長い間待っていた時が。    .












ナランは草原の中に一人いた。背に落ちかかる束ねられた長い髪は烏の羽。月光を受けて夜よりも暗く輝いている。静寂。ナランを乗せた馬が僅かに震え、鼻息を落とす。月は真上に上がり、夜空を支配する。君臨する。そっと脱け出てきたゲルはもう視界の範囲にはない。
彼は静かにあたりを見まわした。再び短い夏を迎えて草原は貴重な緑に染まりうねっていた。時折過ぎる風に草の匂いが舞いあがってくるのをナランは呼吸していた。
夏の月光。一年前と同じように月は輝いていた。あの夏の日も、ここで彼の一族は野営したのだった。
上着の刺繍の文様が、星をちりばめたように輝いているのを、目を伏せてナランは見詰めた。真緋に染められ仕立てられた厚手の毛織物は、彼のほっそりした肩を守るように覆っている。ナランの俯いた睫毛は長く黒い絹糸のようだった。その睫毛の奥に秘められた黒曜石の瞳。湖に浮かべた一つの宝玉。滑らかな頬は青白いまでの雪の白さだ。整ったその細面には、今や何の表情も浮かんでいなかった。
耳をぴくりと立て、馬が首をもたげるのを、ナランは手綱を引いて静めた。風と彼方の獣の遠吠え以外には何も聞えては来ない。しっかりと手綱を掴んだその手は何処にそんな力があるのかと思うほど長いしなやかな指をしている。ナランはもう片方の手で、上着の銀の釦をいじった。まるで女の手のようだと言われていた母譲りのその細い指は、ナランの兄弟に共通のものだった。ただ、兄の方がより器用だったことを、彼は思い出していた。兎罠を作るのが、ことの他、兄は上手かった。
「ナラン、今夜は兎罠を仕掛けに行こう」
一年前のあの夏の日、兄はそう言ったのだ。
硝子の様に澄んだ茶色の瞳が、微笑してナランを見つめていた。ナランはうなずいたが、何故、その夜に限って、兎罠を仕掛けなくてはならないのか分からなかった。ただ、兄にはいつも、不思議な勘が備わっていて、兄の言うとおりに罠を仕掛けたり、川に糸を垂れていると、兎でも魚でも、飛び込んで来るようにそれに掛かってくるのだった。
ナランの同意を見て取って、兄は破顔して去って行った。その背の高い後姿を見ながら、子供のような笑顔だとナランは思っていた。

 
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