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蘭の会 三周年記念 連載コラム

新 サルでもわかるレトリカル 会員番号000b 佐々宝砂



■ 第22回 【再録】比喩を使おう(3)見立ての比喩
今回は見立ての比喩について考えてみませう。見立てというのは、何かを仮に他のものであると見なして扱うことです。手の指を家族にたとえて、親指は父さん、人差し指は母さん……とやるのも見立てです。つまり、前々回にやった擬人化は見立ての一種です。

●有情化
擬人化と似たものに「有情化」というものがあります。これは、感情を持たないものを感情を持っているかのように見立てることです。

有情化 例文(佐々宝砂)
「スノードーム」

 今は冬で 夜で なのに
 はらはらと花びらが落ちてきて
 あまり美しいので閉ざした目に涙を浮かべている
 はらはらと花びらが落ちてくる

 切りなく降りそそぐ花弁は
 冷たい土のうえでひっそりと凍りついてゆく
 彼女は両手をひろげて空を仰ぎ
 おりてくるものすべてを抱き止めようとする

 そう この降りそそぐ花弁を胸に受け止めることが
 彼女に課せられた義務
 彼女は誰かに作られた存在
 工場のラインで組み立てられた量産品

 閉じられた空間でうっとりと
 すべてをひっくり返す巨大な手を夢みている

私自身の詩ですがお許しあれ。この詩に出てくる「彼女」は、スノードームの中にある人形です。感情を持たない人形が感情を持っていると見立てて書きました。しかし、この詩は同時に私自身の感情を書いたものでもあります。スノードームの人形に仮託して自分の感情を物語っているわけです。人形やぬいぐるみ、あるいは植物のようなものだと有情化するのがラクです。コップや帽子や机を有情化するのはなかなか難しい。でも本当は、そういう難しいコトをしてこそ面白いのかもしれません。

●活喩/招呼法
生き物でないものを生きているかのように表現することは「活喩」といいます。文章の途中で人間以外のものに呼びかける方法にはまた別な名称がありまして、それは「招呼法」と言います。招呼法については特に説明する必要はないでしょう。

活喩 例文1
 陶酔や広場に水は死に続け(倉本朝世)
 薄氷(うすらい)へわが影ゆきて溺死せり(三橋鷹女)

活喩といいながらどちらの俳句も死んでおります(笑)。しかし生きていなければ死ぬこともまたありえないので、生きていないモノが「死ぬ」と書いたら活喩です。広場で死に続ける水は、たぶん噴水かなにか、流れ落ちる水でしょう。「陶酔や」と始まっていますが、「や」という切れ字でいったん意味が切れており、陶酔しているのが何者かはわかりません。作者かもしれないし、水かもしれません。水だとすれば有情化の俳句でもあります。鷹女の句は、氷の上にある自分の影が光の加減か何かで消えたのを「溺死」と表現しています。なかなか刺激的な表現です。

●擬物法
擬人法のちょうど逆にあたるのが「擬物法」と呼ばれるものです。人間をモノであるかのように扱って表現するわけです。

擬物法 例文
 夏の海水兵ひとり紛失す(渡辺白泉)

またも死ぬ俳句です(すみません)。普通、「紛失」という言葉は人間に対して使いません。所有していたモノに対して使う言葉です。「ひとり」と数えられてはいても、この俳句の水兵はまるっきりモノ扱い。しかしモノとして扱われていればこそ、この水兵にふりかかったであろう悲劇と、その死の軽さが引き立ちます。

戦争や殺戮を描くとき、擬物法はかなり効果的な方法です。情緒纏綿悲哀たっぷりに描かれた死よりも、擬物法で素っ気なく描写された死の方が心に訴えたりします。

●結晶法
生きているモノを生きていないモノのように表現することは「結晶法(または石化法)」と呼びます。 これはルナールのお得意(ルナールの『博物誌』は詩というより詩的エッセイですが傑作、動物好きには必携必読。有情化・擬人化・結晶法の例文の宝庫です)。三好達治もルナール風の結晶法の詩を書いています。

結晶法 例文(『博物誌』より/ルナール/辻昶訳/岩波文庫)
「からす1」 畝溝(うねみぞ)の上のアクサン・グラーヴ。
「ほたる2」 草に宿った月の光のひとしずく!

アクサン・グラーヴは、フランス語の記号のひとつ。Aなどの母音の上に置かれた点です。ほたるの方は説明不要でしょう。ほたるを月光のしずくにたとえて書きたいと思っても、これだけ簡潔な先例があると私などには勇気がなくて書けません。

●見立ての比喩となぞなぞ
特に名前がついてない見立ての比喩は数限りなくあります。人間を植物に見立てたり。抽象的観念を虫に見立てたり(辻まことの『虫類図譜』がコレ)。萩原朔太郎にも「その手は菓子である」「その襟足は魚である」というエロティックな見立ての詩があります。童謡には可愛らしい見立てが多くあります。たとえば「めだかの学校」がそうですね。見立ての比喩を使った詩の中には、何が見立てられているのかはっきりと書いていないものがあります。たとえば下の詩の中で「天使」に見立てられているのは何でしょうか。

見立ての比喩となぞなぞ 例文1(佐々宝砂)

「蒼白の天使」

 彼等は天使なのだから自由に降りてくる
 ひとは誰も彼等の姿を見ることができない
 彼等に思想はない
 彼等は天使であり善でも悪でもない

 天使は通り過ぎる
 ありとあらゆるものを刺し貫き
 ドアも壁も彼等の前では意味をなさない
 天使が通り過ぎるとひとは沈黙する

 灼熱する寡黙の底 沸騰する静寂の内部
 天使の世界は清浄であり数式のように美しい
 天使が触れるとひとは羞恥のあまりに息をとめる

 天使を名づけても手なづけたことにはならない
 ひとが彼等を何と呼ぼうとも天使は
 ただまっすぐに貴方の身体を貫いてゆくのだ

別になぞなぞのつもりで書いた詩ではありませんが、答は「放射能」です。この詩は東海村で臨界事故があったときに書きました。放射能を天使に見立てるとどーなるか考えて書いたのではなく、放射能の性質から「天使」という見立てを導き出しました。しかし、天使と見なされても放射能の放射能たる性質は変わっていません。人には見えず、善でも悪でもなく、あらゆるものを貫き、致死性を持ち……。

何かを何かに見立てるとき、そのモノの本来の性質を変えてしまうのは本末転倒です。そのモノの性質や外見を的確にわかりやすく面白く伝えるための見立てであって、見立てのための見立てではありません。しかし、それが面白くて的確な見立てならば、何を何に見立てたってかまわないのです。

見立ての比喩となぞなぞ 例文2(『まざあ・ぐうす』より/北原白秋訳/角川文庫)

 お乳のよに白い大理石の壁に、
 絹の柔軟(しな)したうすい膜(かわ)つけて、
 すいて凝(こご)った泉の中に
 金のりんごがみえまする。
 そのお城に戸一つないので、
 どろぼうどもまでわりこんで金のりんごをぬすみだす。

この詩の答は「卵」です。マザー・グースの中には、このようななぞなぞになった見立ての詩がいくつかあります。

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