シオマネキ



 
 
 

 せいぜい子供が納まる程度の玩具みたいなバスタブに、それでも熱めの湯を張って、不自由な時を過ごそうとする。
 そんな自分を愚かしくも愛らしいと思ってしまうには、今日もまた疲れすぎていて、いつものように、惰性で準備をしてしまうだけ。
 何の感情も交えずに、ただ溜まりゆくお湯を見るだけ。
 それでも箱の蓋を開け、これが最後の1つなのだと思えば、残念さだとか喜びだとか安堵のような脱力だとかがごたまぜになってやってきて、瞬きする間に消えてしまう。
 とぷん‥‥。
 軽くつまんだ指を離すと、やけに間の抜けた音を残して、鈍くへこんだかたちのままで、バスキューブは沈んでいった。
 中に詰まった淡色の帯が、少し固めのゼリーのような殻を破って溢れて揺れた。
 

 ゆっくりと、なるべく水面を波立てないよう、つま先をそっと差し入れる。
 腰を降ろして両腕で膝を抱えると、止めていた息を深く吐き出して湯気を吸う。
 少しぬる目のお湯の熱さがじわりと肌に伝わって、今日という日ももうすぐ終わると、ようやく実感がわいてくる。
 けれどどうして自分が依存してしまっていると感じるのだろう。
 骨ばった背をもたれたままで、腕を伸ばせば向こう側に触れてしまうバスタブなのに。
 ふとした時の仕種にさえも気を遣わなくてはいけない上に、脱衣所すらない、ひょっとすると備え付けのクロゼットよりも窮屈かもしれない空間なのに。
 いつまでも冷たい肩を掴んで、なるべく波をたてないように、そっと手のひらで温める。
 決して沈まない膝を押さえて、冷えた丸みに湯をかける。
 それでも見上げた鏡面は、薄ぼんやりとけぶって見えた。
 

 ゆらゆらと漂う淡いけむりは昨日見た遠い薄雲になり、ゆるゆると伝う熱いけむりは昨夜見た硬い音と重なる。
手のひらにできる水溜りなど今更怖いとも思わないのに、照り返す程に金属めいたオレンジの光が目蓋に凍みた。
 真っ黒な闇を無理やり裂いて、照らされた場所はどこまでも黒く、集められた人々もまた、真っ黒に見えた。
 きちんと化粧を施した顔で、そのレポーターは訴えていた。
 大げさなまでに顔をしかめて、その場所で起こった出来事について。
 風はまだ強すぎるほどで、夜はまだ、とぐろをまいていた。
 誰かが、彼女は海を見に行ったのだと言っていた。
 夜の海を、荒れている海を見たかったのだと。
 

 とぷん‥‥無造作に落ちた手のひらが沈み、そして間もなく底につく。
 つるつるとしたバスタブの底は、海を忘れてしまった誰かがそれでも海に帰ろうとして、どこかで間違えてしまった時にうっかり作られたものかもしれない。
 そうでなければ、もう戻れないと知った誰かが、替わりに作ったものかもしれない。
 多分、こうして湯を浴びるのは、海から上がった身体の渇きをほんの少しでも癒すため。
 温かい水に包まれる度、忘れかけていた自分の身体を取り戻すことができるから。
 きっと誰しもそんな渇きに気づかないまま、自分のなかに溜まった砂をなにかもわからず撒き散らしながら、海に帰る日を思うのだろう。
 ひらひらと指を動かすたびに、からころと澄んだ水音が鳴る。
 耳の後ろで囁くような、甘く幽かに湿った音が。
 

 海に呼ばれた女性はきっと、この音に呼ばれていたのだろう。
 近づきたいと思った時に、この音がそこにあったのだから。
 それとも逆に彼女が海を呼んだのだろうか。
 嵐を呼び込む人魚の歌を、彼女はどこかで手に入れてきて海に歌ってやったのだろうか。
 幼い子供にするかのように、寝かせつけようとしたのだろうか。
 もしもそうなら、渇いていたのは彼女ではなく、彼女を求めた海になる。
 誰も彼もに与え続けて、いつしか渇いてしまった海が陸に上がった人魚を呼ぶのは、自分だけでは満ちない潮を、代わりのもので満たすため。
 海に呼ばれた女性はきっと、満ち足りた海に抱かれたままでひっそりと熱を与えるのだろう。
 かつて自分に注がれたように、限りない夢を濡らすのだろう。
 

 今までのように、これからもずっと、残せるものなどどこにもないなら、海に沈んで眠るのもいい。
 抜け落ちた髪は砂へと還り、肉片も骨も餌となり、そしていつしか本当に海の向こうに還るのだろう。
 もしも誰かが教えてくれたら、きっと人魚の歌をうたいに夜の港に出かけるだろう。
 自分を捧げに踏み出すだろう。
 なにかを悲観しているでもなく、絶望のなかに佇むでもなく、ただ満ちたりた最期がそこに静かに在るのだとしたら。
 拒まれることはないだろう。
 朽ち果てるまでの時ですら、なにかの役には立てるのだから。
 

 頬を伝わる水滴をぬぐい、渇いたタオルに手を伸ばす。
 僅かながらも残された陽だまりのにおいに顔を埋めて、そっとバスタブの栓を抜く。
 濁った音を吐き出しながら、ほんのり冷えた水はどこかに渦巻きながら落ちていく。
 人魚の歌は知らないけれど、人魚の涙は知っている。
 涙とは弱いものだから真珠は貴石ではないのだと、むかしどこかで聞いた気がする。
 けれど涙が流れるような強い想いを持っているから、真珠は貴石にはなれないと、呟いたひともいたかもしれない。
 人魚になった彼女に聞けば答えはすぐにわかるのだろう。
 最後の水はバスタブから消え、微かに歪んだ視界の隅で人魚がそっと手招いていた。
 


 
 
MOON−SHADE の氷雨空弧様より、カウンタ記念に、水音というお題で書いていただきました。
何気ない、日常から滑りこむように水中の世界にさ迷い出でてしまうこの物語は、イメージをはるかに超えた素敵な作品で、本当に感謝しております。
ありがとうございました。

 
 
 
宝物の間
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