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蘭の会 三周年記念 連載コラム

新 サルでもわかるレトリカル 会員番号000b 佐々宝砂



■ 第36回 いったんここでサヨーナラ
えーとえーと毎度おなじみ言い訳から新サルレト最終回はじまりです。今回は何を言い訳にしようかなあ、えーと、今月はですね、サーバの調子がおかしくて更新に手間取ったためサルレト更新がいちばん最後になりました。これがアップされるのは15日朝の予定でございます。みなさますみません。平伏して謝罪します。

で、今度こそは最終回なのでなにやらソレらしきことを書かねばならんのです。しかしここに至って私は、見なくてもいいものを見たあげく気づかんでもいいことに気づいてしまったので、これまで書いたものを全部書き直すかなかったことにするか、という恐ろしい瀬戸際に立っております。もちろんこれまで書いたものを削除したりはいたしません。そこんとこは安心してください。これまで書いてきたことが大きく間違っていた、というわけではないのです(まあ、細かいところでは間違っている可能性が大いにあります。間違ってたら佐々宝砂にこっそり連絡してね)。ただ、比喩というものの分類が、これまで書いたような直喩と暗喩(隠喩)、さらに提喩・換喩・声喩などいった一般的分類以外にも存在するということに今さら気づいてしまったのでした。あーヘタに勉強してヘタにひとさまに講義なんかするんじゃなかったよもう、恥かくばっかやー(あいごー)。

とまあ泣いていてもはじまらないので(いやもうはじまってるんですけど)、続けます。

一般的な直喩・暗喩(隠喩)以外の分類とは、有名な詩人にして批評家でもある吉本隆明氏が提唱した三喩法論による分類です。吉本隆明氏は、比喩を、感覚喩・意味喩・概念喩の3種類に分類しました。と書くとなんだか私自身よく理解してそうですがそんなことはありません。三喩法は、『言語によって美とは何か』と吉本隆明全著作集(私はどっちにも図書館で借りました)に出てくるものなんですが、はっきり言ってアホな私には読んでもよくわかりませんでした。あー恥ずかしい。でもわかんないながらにとにかく読むことは読みました。吉本隆明氏といったら一部にはたいへん有名な人なのです。なんしろ吉本ばななの親父です(そんなことはどーでもよい)。

わかりやすいところからとっかかりましょう。感覚喩というのはまあわかりそうです。感覚喩は、『言語によって美とは何か』のなかで像的な喩とされているものです。像的な喩とは視覚的な喩のことでしょう。視覚的な場合だけではなく聴覚的だったり味覚的だったりする場合もあるので、像的な喩より感覚喩というほうが幅広く正しい定義だと私は思います。まずは、たいへんに安直な感覚喩の例をあげましょう。

○三喩法論例文1
太陽はトマトだ。

なんで「トマト」かというと赤くて丸いからです。暗喩ですが、感覚喩でもあります。赤くて丸いというのは感覚的、像的な形容ですね。この程度ならわかりやすいと思います。じゃあ、こういうのはどうでしょう?

○三喩法論例文2
目覚まし時計みたいなセミ。

いまはもう9月なのでセミもそううるさくはありませんが、8月の朝のクマゼミのうるさいことといったら殺人的です。セミの鳴き声そのものが目覚まし時計に似ていると考えれば、これは感覚喩です。しかし、クマゼミは朝やかましいものだし、そのクマゼミの鳴き声を実際に目覚まし時計のように利用しているとしたら・・・感覚的なだけではなく、意味の上でもセミは目覚まし時計みたいなのです。そう考えれば意味喩になります。例文2は、文脈がわからなければ感覚喩なのか意味喩なのかわかりません。

○三喩法論例文3
a.おかあさんのいない家でも
 朝がくればセミが鳴く
 目覚まし時計みたいなセミ

b.朝がくるたびうるさいのに
 止められない目覚まし時計

ちょっとうまい例文ではないような気がしますが、まあいいとしてください。例文aの方は一応意味喩です。bの方には「セミ」という言葉が出てきませんが感覚喩です。一応そういうつもりで書きました。違っていたらごめんなさい(今月は気弱だなあ)。まあなんとなく意味喩と感覚喩の違いをわかってください(気弱な上にいいかげんだなあ)。しかし感覚喩と意味喩以上にやっかいなのが概念喩です。概念っていう言葉の概念そのものがやっかいですからねー全く。

概念つーのは「ものごとの概括的、総括的な意味」のことです。はてさて意味喩と概念喩はどう違うのでしょうか。セミと目覚まし時計の比喩は、意味喩として使われる場合でも、セミの「朝鳴く」「やかましい鳴き声」という部分的な特徴についてのみの比喩です。セミの総括的な意味と目覚まし時計の意味はあまり一致しません。あくまでも部分的に一致するだけです。だからセミと目覚まし時計の比喩は意味喩なのです(と、思います←あー気弱)。

○三喩法論例文4
太陽はおかあさんだ。

語順を逆にして「おかあさんは太陽だ」にしてもかまいません。これは概念喩であると私は思います。母親はあったかいものです。太陽もあったかいものです。そういう感覚的な面で似ています。しかし感覚的な面だけではなく、もっと総括的な意味でも太陽と母親は似ているはずです。たとえば、みんなを見守ってくれる。はぐくんでくれる。近くに寄りすぎると恐ろしい(いやおっかなくない母親もいるかもしれませんけどね)。などなど。こうした感覚も意味もこきまぜた総括的な意味での比喩、象徴の域にまで達している比喩を概念喩と呼ぶんじゃないかな(ああ気弱)というのが現時点での私の考えでございます。

直喩であれ暗喩であれ、面白い比喩は概念喩のような気がします。そこいらに到達すればあなたも今日から詩人!になったらいいなあ(最後まで気弱だなあ)。というわけで、なんかずいぶん予定が狂ってしまいましたが、これにて「新サルでもわかるレトリカル」はいったん店じまいといたします。三喩法論については、来年からはじめる(予定は未定)の「真・サルでもわかるレトリカル」の課題にしたいと思います。

●最後の課題!
概念喩を使って詩を書いてみましょう。

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会員随時募集中/著作権は作者に帰属する/最終更新日2007-09-15 (Sat)/サイトデザイン 芳賀梨花子

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