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蘭の会 三周年記念 連載コラム

新 サルでもわかるレトリカル 会員番号000b 佐々宝砂



■ 第29回 腐りゆく比喩の恐怖!
誰が言った言葉か知らないが、「表現は比喩から腐る」とも申します。比喩は便利だし面白いし役立つものなんだけれど、「比喩は腐る」さらには「死ぬ」ということを心しておかないと失敗する。そうそう、「比喩は腐る」という比喩自体、もしかしたら腐っている(笑)。

しかし「腐りゆく比喩」を解説する前に、「死にかけの比喩」と「死んだ比喩」を説明しておきたい。具体的に詩を引用してみよう。これは悪い例なので(笑)、面倒を避けるために私の詩から引用することにする(以後もなるべく私の詩から引用することにしたい。著作権の問題をクリアしておきたいから、というのもひとつの理由である)。


死にかけの比喩 例文「アルビレオ」より(佐々宝砂)

 はるかな過去からやってきた光が
 わたしの頭上にある。
 真夏の夜空の北十字よ。
 母の胸よりもなつかしい光よ。

 友の名前よりも、
 星の名前が大切だった。
 ベガ、アルタイル、デネブ、アルクトゥールス、
 星の名前は銘酒のようにわたしを酔わせた。


まあもとより駄作なんだが、特にアカンのは比喩を使っている部分、具体的にいうと「母の胸よりもなつかしい」「銘酒のように」の二ヶ所だ。あまりにもありきたりの言い回しなので、この比喩をキーワードにしてgoogleで検索すれば、けっこうたくさんのサイトがひっかかりそうである(実際には検索してないけどな)。このような、たくさんの人が日常的に使う決まり切った比喩表現、たとえば海水浴客をたとえて「芋を洗うような」と言う類が、死にかけの比喩だ。「これは比喩なんだ」という意識がまだちょっとだけ残っているので、「死にかけ」。

日常会話のささやかなレトリックと考えれば、決まり切った比喩もわるくはない。「猫の額のような庭」「首を長くして待っていた」なんて比喩を使った言い回しは、詩を書かない人も普通に使う。えーと、でも、使わないヒトは使わないかもしれないな。だけど、んー、少なくとも、曲がりなりにも詩を書く人は、こういう言い回しも知っておいて損はない。昔の本を読むと山ほどこういう言い回しが出てくる。あ、そういえば、「山ほど」と書いたこの部分も決まり切った比喩だ(笑)。この手の比喩は、はっきり言えば死にかけどころではなくすっかり死んでいる。比喩だという意識が、書き手にも読者にもほとんど残っていないからである。

決まり切った比喩表現は、全世界的に通じるものもあるにはあると思うけど、一般的に、固有の文化に頼る部分が大きい。外国語の言い回しと比較するとよくわかる(と言っても私には英語さえちゃんとはわかっていない)。たとえば、英語のイディオムに'Cut the knot'というのがある。直訳すれば「結び目を切る」なんだけど、イディオムとしては「難事を一挙に解決する」ことを表す。ちなみにこの'Cut the knot'というイディオムは、「ゴルディアスの結び目」の故事に関係する(小松左京の小説「ゴルディアスの結び目」はこの故事に基づいたタイトルなのよ)。プリュギアの王だったゴルディアスが作った結び目、そのややっこしい結び目をほどいたものがアジアの王となるだろうという予言があって、みんなほどこうと努力したんだけど、誰もほどけなかったのね。そこにアレキサンダー大王がやってきて、あっさり結び目を剣で切っちまった。この故事から'Cut the knot'という言い回しができました……と言い切れたらすっきりするのだけど、実はこの故事だけの話じゃない。ヨーロッパ特にアイルランドやスコットランドでは、「結び目」なるものにけっこう深い意味を持たせる伝統があるんだな(日本でも複雑な結び目には守護などの意味をもたせるが、あちらほどではない)。このへんを詳しく説明すると「レトリック入門」ではなく「ささほの魔女っこ入門」(笑)になってしまうので詳述はしないけど、「結び目」="knot"という単語ひとつとっても、文化が違うと思い出すもの連想するものが違ってくるということは強調しておきたい。

'Cut the knot'を日本語で言うなら、やや古臭い表現だけれど「快刀乱麻を断つ」「一刀両断に解決」という感じかな。日本人は「結び目」にそんなに神秘性を感じていないので、「刀」を強調した表現になってるんだと思う。

決まり切った比喩的言い回しは、さっきも言ったように、そんなに悪いもんではない。文化を共有している同士で使うならば、きちんと意味が通じるからである。でも、比喩としては死んでいる。なぜかって、ダイレクトに意味がわかってしまって、言葉の持つ本来の意味は意識にのぼらないからだ。「猫の額のような庭」と言ったら意味はじゅーぶんにわかるけど、この言い回しから実際の「猫の額」を連想するヒトはいない。少なくとも、日本語を母語とするヒトの中にはほとんどいない。「猫の額のような」がそのまんま「狭い」という意味にダイレクトに結びついていて、「猫の額」という言葉がもたらす本来のショックは失われている。こうなってしまうと、もう比喩の力はないんである。

以上が「死にかけの比喩」「死んだ比喩」の説明。正直に言えば、ここまではかつて詩人ギルドに書いたものの再録である。ここまで書いておきながら、私はこの後に「腐りゆく比喩」について書かなかった。書こうともしなかった。ずばり言っちゃえば「腐りゆく比喩」という比喩からして腐っているのであり、私自身かなり腐っており、しかし現実の私はまだ腐敗はしていないのでこの「腐っており」という言葉も比喩でしかも腐っていて、ってどこまで続ける気なんだよわしゃ。このように自己言及的になってゆくとこの文章が目指してるのと別な方向にぶっとんでしまうので、どうしようかなあ、とにかく、だ。

私の地元の大臣が「女性は子どもを生む機械」と比喩を使って怒られたが、人を怒らせるような比喩は、比喩としてはまだ腐っていない。それなりにインパクトを持つからこそ人を怒らせるのだ。腐りゆく比喩は人を怒らせない。むしろぬるま湯のように優しく人を包み込む(この比喩ももちろん腐っている)。腐りゆく比喩はわかりやすい。腐りゆく比喩の見た目は悪くない。腐りゆく比喩に罪はない。

では、なぜ、腐りゆく比喩が恐怖なのか。それについては来月考えます〜(すたこらさっさと遁走する佐々宝砂)

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