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蘭の会 三周年記念 連載コラム

新 サルでもわかるレトリカル 会員番号000b 佐々宝砂



■ 第18回 【再録】比喩を使おう(1)擬人化
以下、かつて詩人ギルドのレビュウに収録したものから若干訂正の上再録したもの。


 ***


私が前に書きかけたレトリック入門もそうだったんだけど、レトリック入門って、たいてい比喩の話、それも直喩の話からはじまります。でーも私はその順序をあえて崩すのだ。今回から比喩の話になりますが、まず擬人化からいくのです(一応考えはあってこういう順序にしている)。

さて、今回お話する擬人化、あるいは擬人法というのは、人間でないものを人間にたとえることです。でも、ぬいぐるみさんや猫さんに喋らせれば擬人化、あるいは季語にあるように山を笑わせたり眠らせたりすれば擬人化、なんなら原っぱに叫んでもらおう、川に歌ってもらおう、と簡単に考えては甘い、あまいのです。まあそういうのも擬人化には違いないのだし、一般に詩で使われる擬人化はそういうものが多いので、とりあえずはそういう擬人化の例をいくつかあげておきます。


○擬人化 例文1(住宅顕信)

 面会謝絶の戸を開けて冬がやってくる


上の俳句は自由律俳句というもの。五七五の音数や季語にとらわれず、自由に書く一行詩のようなものです(でも行分け自由律俳句とゆーものもあって、俳句なのに三行で分けてたりもしますので、一行詩と自由律俳句は違うものだと考えた方がいいです)。で、この俳句は「冬」というものを人間にたとえて、面会謝絶の戸を開けてやってくる、と書いてます。冬の冷酷さ淋しさがみえるようで、私の好きな俳句です。


○擬人化 例文2(萩原朔太郎)

 「静物」

 静物のこころは怒り
 そのうはべは哀しむ
 この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
 窓ぎはのみどりはつめたし。


これは私の大のお気に入りの詩でありまして、あまりに好きなのでどう解説していいかわかんないのですが、単なる物でしかない白い器を擬人化した詩であることは確かです。しかしそれだけではこの詩のよさを説明できない気がする、単純な擬人化ではない気がする。でもうまく言えない……ので説明はやめます(笑)。観賞してください。


○擬人化 例文3(サッフォー作/呉茂一訳) 

 夕星(ゆうずつ)は、
 かがやく朝が 八方に散らしたものを
 みな もとへ 連れかえす。

 羊をかえし、
 山羊をかえし、幼な子を、また母の
 手を連れかえす。


ギリシャの女流詩人サッフォーは紀元前612年ごろ生まれた人です。彼女の詩は、まとまったものはあまりたくさん残っていません。引用したのは、断片として残っているものです。一読すればおわかりのように、夕方の星を擬人化して表現しています。サッフォーのこの書き方はとてもあたたかく、情景として目に浮かびます。これは今の世にも通じる表現だと思います。

サッフォーも使ってることからおわかりのように、擬人化は非常に古くからある手法です。原始的な手法と言ってもいいくらいです。たとえば、神々というものは、自然や抽象的観念が擬人化されたものです。大地を擬人化して女神ヘラ、死を擬人化して死に神、美を擬人化してアフロディーテ……などという具合に。サッフォーももしかしたら、夕方の星をただ擬人化したのではなく、それが神であると見なしていたのかもしれません。

擬人化は、言葉だけでなくダンスや彫刻や絵で表現することもできます。たとえば、中世ヨーロッパでは、「節制・謙遜・貞節・希望・信仰・愛・正義・純潔」などの美徳、また「傲慢・貪欲・淫乱・憤怒・吝嗇・怠惰・大食」などの悪徳が擬人化されて絵になってます。「正義」は天秤と剣を持っている。「純潔」は百合を抱えている。「大食」は当然ですがデブデブ太って涎なんか垂らしています。天秤と剣とか、百合とかいうのはシンボルです(シンボルについてはそのうち説明します)。「正義」も「純潔」も実際には目に見えません。よくわかんないものです。で、そのよくわからん抽象的観念を目に見えるものとしてわかりやすく絵に描いたのが、こういう画像です(はいここで画像お願いしますね、と言ってスッと出てきたらラクだなあ……ここで画像を出したい……)。

日本でも有名な擬人化画像というと、何があるかな、んーと、たとえばタロットカードの中の「力」がそうです。タロットはオカルト(怪しい意味ではなく、本来は「隠された知」のこと)画像の一種で、抽象的な観念を絵で表現したもの。タロットの「力」は、ライオンを従えた女性で表現されます。「力」=「ライオン」ではないんです。ライオンを従えた女性が「力」なのです。ここにはなかなかややこしい意味が隠れています。

あと、ですね、国家というものもよく擬人化されます(国家も実際に目に見えるわけではない抽象的観念です)。アメリカは星条旗みたいな服を着た太ったオッサン、イギリスは偏屈そうな痩せた男、日本はメガネかけて出っ歯で小柄でカメラを首にかけている男(笑)。これはもちろん時代によって変わるし、どこから見ているかによっても変わります。メガネかけて出っ歯で小柄でカメラを首にかけている男、というのは日本の自画像ではなくて、外国から見た一昔前の日本の擬人像です。

美術の話は専門外、私がこれ以上書くとボロが出るのでそろそろやめておいて(笑)、個人的な昔話をします。昔むかしのその昔、まだ13歳だったとき、私はノートにへんてこりんな文章を書きました。「感情」と「理性」と「本能」が口論する、という内容の文章です。なんでそんなもん書いたかというと、まあ要するに私は恋に悩んでおりまして(13歳なので許せ)、「感情」と「理性」と「本能」というかたちにわけて自分の頭の中を整理整頓してみようと思ったのでした。頭の中身の整理整頓は叶わなかったのだけれど、これはこれでレトリック修養ではあったのです。つまり、私は知らずして「抽象的観念の擬人化」とゆー作業を行ってたわけです。いや、こうやって書くとエライことやったようですが、実はヒドイ代物で。


○擬人化 例文4(佐々宝砂)

感情;だってあたしはそうしたいの、理由なんてない。
本能;……(眠っている)
感情;なんか言ったらどうなの。
理性;(頬杖ついて)きみに何か言ってもどうしようもないんじゃないかな。
感情;(懇願するように)でも何か言ってほしいの。
理性;ぼくは何も言いたくないんだ。
本能;mmm〜♪(突然ハミングで歌い出す)


……というような具合(だが元の原稿は紛失、いや正直に言えば残しておきたくなくて焼いちゃった)。当時私は、書きながら「これまで書いたことのないものを書いてる!」と思って、ひとり昂揚しておりました。誰かに教わって書いた擬人化ではなく(そもそも擬人化という言葉自体知らず)、自分で考えた新しい方法なんだと思っておりました。それはそれで幸せだったのではないか、と今の私は思います。たとえば数学で、解き方だけをそのまま教わるよりは、まず問題にぶちあたって自分で解き方を考える方が頭を動かす訓練になる。教わった公理よりも自分で考えて得た公理の方が記憶に残る。その公理が千年前に発見されたものだとしても、自分で発見した方が喜びが大きい。その喜びこそが数学の醍醐味なのでしょう。レトリックも、もしかしたらそういうものではないか。だとしたら、こんなレトリック入門なぞ書いてヒトサマにものを教えた気になっている私は、もしかしたら間違ったことをしているのではないか。

そういうわけで、ちょっと悩んでいるのですが、続けます(まあそんなもんだ私は)。

で、13歳の私が書いたこのアホな文章には、ご丁寧にも戯曲のような登場人物の説明までついておりました。記憶を元に再現してみます。


○擬人化 例文5(佐々宝砂)

感情;青白い顔の太った少女。癖の強い長い髪。セーラー服を着ている。
理性;白いシャツを着た痩せたメガネの少年。辞書を持っている。
本能;小柄な少女。くるくるてんぱーの短髪。体操服にブルマ。


なんで「本能」が体操服にブルマだったのか(笑)、もはや思い出せないのだけれど、たぶん私にとって体操服とブルマというのは肉体のシンボルだったのでしょう(笑)。それが小柄なのは、かなり自分の肉体にコンプレックスを抱いていた証拠。「理性」が少年なのは、当時の私にとって自分の中の理性が男性的な部分だと思われたからだと思います。また「理性」が辞書を持っててメガネをかけてるのは、「純潔」が百合を抱いてるのと同じようなこと、これもシンボルです。今の私なら「理性」を男にはしないし辞書も持たせない、ましてメガネはかけさせない(爆)。でもって「感情」は、まんま当時の私の自画像です。自分一人で抽象的観念特に心理的な観念を擬人化してみると、かように自分の考えや価値観がモロに出ます。

……と、というとこで、宿題。

●「インターネット」を擬人化して、10行以内の詩を書こう。「インターネット」が人間だったらどんなヤツか、という詩でもいいし、「インターネット」が歩いたり歌ったりするような詩でもかまいません。

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