中央情報局企劃部 假名遣に關する論考
序
假名とは、漢字を受け入れた我等が先達が、我が國語に沿ふやうな表音の表記をする爲に、漢字を崩して拵へた文字であることは、敢へて書く程のこともない、常識である。
假名遣とは、國語の發音が、假名がつくられた當初の發音と、時を經るに從つて乖離した爲、語を假名で表記するときに、如何に表記するべきか規範とするものである。
本稿では、「歴史的假名遣」を遣ふべきであるとする立場に立つて、假名遣に纏はることを論ずる。
「表音文字」の利用≠「表音的表記」
假名が表音文字としてつくられてゐること、それ自體は否定できないし、する積りもない。
しかし、假名が表音文字であることを以て、假名遣を表音的にするべきといふのは、亂暴で、短絡で、頭の惡い謂ひである。
讀者諸子は、學校で英語を勉強させられたことがあると思ふが、英語は、ラテン文字といふ表音文字を遣つてゐるにも關はらず、全然表音的でない。綴りと發音に乖離があることに、苦しめられた人も多いであらう。
英語に限らず、ドイツ語もフランス語も、他の西洋諸語も、竝べてみれば文字の發音と、語の發音が完全に一致するといふことはない。そして、いづれの言語でも、表記を發音に合はせる爲に變更するなどといふ話は、終ぞ聞かない。
「文字通り發音しないと言つても、綴りと發音の間に何らかの法則はある」などといふ反論が來ることは、想定してゐる。その通りであらう。西洋諸語でも、日本語でも、表音文字の表記と、發音の乖離は、全く原則無しに行はれた訣ではなく、或る種の規則に沿つて行はれたのであるから。
西洋諸語の現状を見ても分るやうに、表音文字を使ふからと言つて、その表記を「表音的」にしなければいけない、といふことは、誰が言ひ出したか知らないが、全く短絡的な、頭の惡い思考の結論と言はねばならない。もし、それが正しい考へ方なら、英語やドイツ語やフランス語の綴り方を、發音通りに變へるやう、お節介を燒いてやらねばなるまいが、そんなことをしても、彼の國の人々は困惑するばかりであらう。
假名遣が表音的なるべし、といふ考へ方は、それ位莫迦な考へ方である。
文章とは、「語」の羅列にして、「音」の羅列に非ず
文章は、口で述べたところの發音をそのまま綴るものではない。意味を成すやうに、言葉を綴るものである。
そして、文章は、別に音讀するとは限らない。無論、言語といふものは、音聲言語が先づあつて、文章言語はその後でつくられるといふ過程を經てゐるものであるが、だからと言つて、音聲言語が主で文章言語が從といふことにはならない。寧ろ、文章として形が殘る文章言語の方が、優越することも多からう。
音聲言語にしても文章言語にしても、その構成要素は、語であつて、音ではない。言語として意味を取るときに、音は單に語を表すための便法である。音そのものに意味はなく、意味は語に屬するものである。
表音主義の見落としてゐるもの
前節で、言葉の意味は語に屬すると書いた。その上で、表音的な假名遣、或は表音的な言語の表記方法一般が持つであらう缺陷について述べる。
あくまで表音的な表記をするとすれば、或る語の發音が變化した場合、その表記は當然に變更されることになる。さうすると、發音が變化する前に書かれたものを、變化した後の人間が讀むにおいて、支障を生じさせるのは、自明である。
或は、或る語の發音について、地域差があつたとすると、ある地方で書いた文章を、他の地方に持つて行くと、やはり支障が生じる。
先に指摘した通り、意味は音には屬せず、語に屬する。或る語の表記方法を決めておくなら、上で示した樣な支障は生じないのである。勿論、この場合、表記方法は、發音が變化しても變へてはならないものとなる。
表音主義は、今現在の、音聲言語の表記を行ふにあつては、簡便なのかも知れないが、折角表記したものが後世まで遺つたときに、どういふことが起るのか、といふことについては、まるで無頓着である。實に刹那的と言へよう。
「現代仮名遣い」のいい加減さ
現代仮名遣いは、概ね表音的である。概ね、と書いたのは、一部の助詞について、歴史的假名遣での表記をそのまま遣つてゐるからである。
かくも中途半端な代物はあるまい。表音主義に徹せず、一部の助詞を歴史的假名遣のままにしたのは、結局のところ、表音主義に無理があると告白してゐるやうなものである。また、長音の例外について言ふなら、原則を自ら立てることもようせずに、歴史的假名遣の表記を借りてどうにか格好をつけてゐる始末である。
詰り、現代仮名遣いは、歴史的假名遣がなければ、その據つて立つところのない、極めていい加減な代物である、と斷言せざるを得ない。
どうしてかういふことになつたのか。それは、結局、何となくの考へで、弄つてみたらかうなつた、といふところだらう。一國の國語の表記の決め方としては最惡である。
かかる表記を、日本語の正當な表記法として、長く使用するのは、日本語にとつて害惡にしかならないと、筆者は考へる。
結局、「歴史的假名遣」以外に遣へるものがない
現代仮名遣いは、無原則で無秩序な代物であり、使ふに耐へない。ただ、使はざるを得ない場面といふのがあるから、苦々しい思ひで使ふ時もないではないが。
歴史的假名遣も、完璧で無缺陷、とまでは言へないのかも知れない。しかし、原則は非常にすつきりしてゐる。現代仮名遣いよりも、合理的で論理的である。
誤解されては困るのだが、歴史的假名遣を用ゐても、口語文は普通に書ける。現に、今かうして書いてゐる。
歴史的假名遣を用ゐるに當たつては、假名遣が語に從屬するといふ性質上、語について敏感にならざるを得ない。しかし、それは、文章を書くといふ行爲にあつては、寧ろ好ましいことであらう。
現代の發音との乖離は、問題とする程のものではない。十分に規則的に、現代的發音が可能なのは、學校の授業で習つた通りである。
筆者が、歴史的假名遣を用ゐるのは、その歴史的な正統性もさることながら、合理的であるといふのが一番大きい。繰り返すが、現代仮名遣いは、結局、歴史的假名遣を否定することは出來てゐないどころか、歴史的假名遣がなければそもそも成り立たない出來損なひである。とても、好んで使へたものではない。
附記: 字音假名遣についての立場
字音假名遣とは、漢字の音を、假名でどう表記するか、といふものであつて、和語をどう記すか、といふ點を扱ふ歴史的假名遣とは、根本を異にする。
漢字の音は、所詮は音であるから、別に表音的でも構はないといふのが、筆者の立場である。但し、字音假名遣をする立場を否定する氣まではない。筆者自身は字音假名遣をよう遣はないし、そもそも字音をどう表記するかといふ問題に遭ふこともないと思つてゐる。
履歴
- 平成22年1月28日 執筆