歐洲的世界觀についての論考
序
16世紀に歐洲列國が大航海時代を展開した際、我が國もまた、彼等の來訪を受けた。彼等の來訪を受けた多くの地が、その後、彼等の殖民地に堕して行く中、我が國は、元來のその位置取りと、國民の有能さ、そして、時の政權の妥當な判斷に由り、遂に獨立を保持し續けた。
一方で、我が國は、歐洲に發した數多の事物を導入した。殊に、明治維新後、明かに文明度の點で我が國が劣ると判斷した我等が祖先は、富國強兵を叫んで貪婪に西洋に學び、其の甲斐あつて我が國は東亞の第一等となるに及んだのである。他に先んじて近代化を成し遂げ、世界を蹂躙した歐洲の世界觀、國家觀を明かにすることが有意義であるのは、歴史が示してゐよう。
古代ローマと歐洲の關係性
歐洲史はどこに始まるのか、それを決めるのはなかなか難しい。現代の歐洲は、古代ローマの版圖の一部と、ゲルマン諸族が支配した帝國外の領域に跨るが、ローマがその版圖を擴げる前には、各地にガリアやゲルマンや其の他の諸族が割據してゐた。そこまで遡つて歐洲史とするべきなのかもしれないが、幸か不幸か、古代ローマ以降、その版圖のうちにあつては、それまでの各個の世界觀は、ローマ的世界觀により、塗り替へられて仕舞つてゐる。そして、ローマ帝國が瓦解した後は、キリスト教會により、ローマの手が及ばなかつた範圍にまで、その世界觀は流布された。
本稿の目的は、現代歐洲の世界觀、國家觀を論考することにあつて、歐洲の古代史を紐解くことではないので、古代ローマから出發したいと思ふ。其の理由を、以下に説明する。
一つ目は、古代ローマの遺産が、現代の歐洲を、やはり規定してゐると思ふからである。古代ローマは滅んでも、其のローマ法は、中世歐洲を經て形を變化させながらも根本において變化することなく採用され續けた。その影響は、現在に及んでゐるし、歐洲の枠を出てすらゐる。近代に入つて、主にドイツ法より多くを採つた日本においても、ローマ法の影響を受けてゐるのがその例である。
二つ目は、歐洲でも特に西側の各國で、ロマンス諸語と稱される、ラテン語方言から發展した言語を用ゐてゐることである。主なものとして、フランス語、イタリア語、スペイン語、ルーマニア語、ロマンシュ語などがある。但し、これは歐洲内において普遍とまでは言へない。歐洲でも、中部以東、英、蘭、そしてドイツ語圏は、ローマ帝國の版圖に入つたにも關はらず、その後のゲルマン諸族の活動の成果であらう、ゲルマン諸語を用ゐてゐる。ローマの版圖でなかつた北歐は言ふに及ばない。また、ギリシアもローマの版圖となつたが、ローマ帝國がギリシア語の使用を特に禁止せず、東西分裂後は却つてラテン語を擲つてギリシア語を用ゐたことにより、現在に至るまでギリシア語を用ゐてゐる。
三つ目は、現在進行形で行はれてゐる歐洲の統合と關係するからである。EUは、ローマの東西分裂、フランク王國の分裂、イベリア半島へのイスラム侵寇と撃退、神聖ローマ帝國の「聯邦化」と瓦解、それら凡ての結果による「國民國家」の割據といふ状態から、今一度、統一された歐洲を再構築しようといふ、他地域では恐らく不可能な事業を進めつつある。EUの如き國家聯合を、他地域で構築することは、歐洲に比べてかなりの困難を要すると言つていい。可能性があるのは、イスラム圏であるが、今のイラクを見る限り、やはり難しいと斷ぜざるを得ない。EUが、緩やかにとはいへ、今の所前進してゐるのは、やはり、古代において、ローマによつて統一されてゐた經驗がものを言つてゐるに違ひない。そして、中世以降も、神聖ローマ帝國が、神聖でもなく帝國でもないと揶揄されつつも、緩やかな聯邦的國家として存續し得たのもまた、古代ローマの遺産であり、それが獨逸を通じてEUに引き繼がれたと言つてもいい。
上記で論じた樣に、古代ローマは歐洲に大きな影響を與へ續けてゐるが、もう一つ、歐洲に大きな影響を與へ續けてゐるものがある。續いては、その、キリスト教について、見てみることにしたい。
キリスト教と歐洲の關係性
キリスト教は、述べるまでもなく、歐洲とはまるで關係のないところから始まつた。ローマの版圖に編入されてゐたユダヤの地でのことである。但し、その引き金を引くことにもなつた、イエスの十字架による處刑は、ローマの派遣した長官の許可で行はれたのは確かなやうで、奇妙な因縁と言へなくもない。
イエス自身は單なるユダヤ教の改革論者に他ならず、自らをメシアと規定して新しい世界宗教を創始するやうな考へはなかつたに相違ない。しかし、彼自身がどう思つてゐたにせよ、結局、彼は神の子に祭り上げられ、「キリスト教」なる宗教の開祖として世界に知られる羽目になつた訣である。
このキリスト教は、ユダヤ教と同じく唯一絶對の創造主YHWHを神として崇める宗教である。ユダヤ教の教典を以て『舊約聖書』とし、イエスの言行録たる福音書や、初期の使徒のによる書簡などを束ねて『新約聖書』とし、これを奉じる。ユダヤ教と同じく、YHWH以外の「神」の存在は否定されてゐる一方で、「天使」や「惡魔」の存在は聖書にも記されてゐることである。
古代ローマでは、此の宗教について、有名なネロ帝による彈壓を最初の例として、以降、コンスタンティヌス帝が公認するまでの歴代が、彈壓を繰り返した。最終的にローマはキリスト教を公認し、國教とするのだが、それは、キリスト教による、ローマ帝國の乘つ取りと言つてもいい出來事である。そして、乘つ取られたときのローマ帝國は、既に衰亡著しく、東西に分裂する前夜であつた。
かくして、ローマの神々を排し、ローマ帝國を屈服させたキリスト教は、帝國が瓦解した後も、ローマ帝國の東西の首都である、ローマと、コンスタンティノープルを根城に、歐洲に根附いていくことになる。元々異教徒であつたゲルマンの諸族が、主を失つた各地に割據して行く中で、その後ろ楯として、東ローマ帝國を、或はローマの地に殘つたカトリックの教皇を、仰いだからであつた。
その中でも特筆すべきなのは、カロリング朝フランク王國のシャルルマーニュであらう。カトリックに歸依することに決したのは、彼自身ではないが、彼もまた、其の地位を確固たるものにするのに、ローマ教皇に據つた。外征を繰り返して版圖を擴げると共に、そのうちの一部を教皇領として寄進した。彼の版圖こそ、現在の歐洲のまさに中央たる部分であると言つてよい。ローマ・カトリックは、彼の教會に對する功績に對して、東ローマ帝國に對抗する意を含めて、西ローマ帝國皇帝として戴冠させ、Carolus Serenissimus Augustus a Deo Coronatus Magnus Pacificus Imperator Romanum Imperium Gubernans qui et per Misericordiam Dei Rex Francorum atque Langobardorum (邦譯: 至尊なる尊厳者であり、神により加冠された、偉大にして平和的な、ローマ帝國を統治する皇帝であり、神の惠福による、フランクとランゴバルドの王であるカロルス) の稱號を與へた。これが、後の神聖ローマ帝國の嚆矢ともなる。
キリスト教は、このやうに、當初は歐洲の中央部においてのみ其の力を得たが、各地の諸王、諸侯が歸依するに從ひ、歐洲の隅々にまで擴がつていき、それに從つて各地の土着信仰は一掃され、或は姿をねぢ曲げられて殘滓を遺すことになる。そして、歐洲は、キリスト教の支配する中世に本格的に入つていくのである。
中世を通じて、キリスト教は、聖俗兩面に渡つて支配の根源であつた。聖の面では敢へて云ふことはなからう。俗の面では、シャルルマーニュへの戴冠以後、少し時を挾んで、東フランク王オットー一世に再び加冠し、神聖ローマ帝國を本格的に始動させた。以後、皇帝を筆頭とする世俗領主との敍任權鬪爭を繰り廣げ、カノッサの屈辱など、世俗權力を凌駕することもあつたが、やがて俗權の方は、世俗權力側に押され、縮小されていくこととなる。それでも、神聖ローマ皇帝に戴冠するなどの象徴的權威や、教皇領や司教領などの一定の世俗權力は持續し續け、世俗權力としての教會の終焉は、恐らくイタリア王國が成立して教皇領が失はれるまで待つことになつたと云へる。
キリスト教は、今尚、歐洲において、主なる宗教の地位を搖るがせにしてゐない。勿論、政教分離は進んだが、北歐においてはルーテル派が、英國においては國教會が、國教の地位を得てゐるし、其の他の地域でも、精神面で、キリスト教に取つて替はるものは、未だ現れてゐるとは言ひ難い。
閑話: 大陸歐洲と英國の相克
本稿で云はんとしてゐる歐洲は、概ね、現在EUとして統合しつつある西歐、南歐、北歐、中歐を指すと思つて貰へばよい。亂暴な言ひ方をすれば、露西亞は廣義には歐洲に含まれるが、ここではもう少し狹めて、露西亞は除外する。正教會が優勢な地域は除いた方がいいのかもしれない位の氣分である。ローマ・カトリックと、そこから袂を分つたプロテスタント諸派の優勢な地域が念頭にあることを前提として貰ひたい。
その中で、異彩を放つのは、英國である。英國は、英佛百年戰爭で大陸歐洲から分離され、エリザベス一世治世の前夜においてカレーを失つてそれをより確定的なものとした。其の後、歐洲大陸に存在する英領は、スペイン繼承戰爭で得たジブラルタル位であらう。其の他に英領とした部分はない。大陸歐洲における戰爭にも、各勢力間のバランスを、自國にとつて具合よいものにするべく屡々陽に暗に介入してゐるが、その結果として領土を得たことはない。大陸と切り離されて以降、逆に、大陸とは一定の距離を保つてゐる。宗教においても、カトリックとは袂を分つて、國王を頂く國教會をつくつてゐるのも英國一國をおいて他にない。他は、カトリックを奉じるか、ルター派など、プロテスタント諸派に歸依するかのどちらかで、國王が主導して上からの宗教改革をやつた例は皆無である。そして、名譽革命の後は、カトリックの王を二度と頂かないと決め、其の大原則による王位繼承法を拵へて、ハノーファからジェームズ一世の曾孫を連れて來て王位に就けることまでしてゐる。まあ、血統から云へば、ウィリアム一世以來の系は完全に保たれてゐる訣だが。ウェールズ系のチューダー朝の血統も、スコットランド系のスチュアート朝の血統も、ジェームズ一世を介して保たれてゐるのは確かである。
この、英國と、大陸歐洲の相克は、今尚續いてゐると言つてよからう。歐洲では通貨統合が成つたと雖も、英國においてはUKポンドが依然流通してゐるし、今後も統合する氣があると感じさせない。尤も、これは英國だけではなく、北歐の王國に共通なことのやうにも感じる。デンマークは通貨統合への手續に手をつけてゐるものの、之を飜す可能性も出て來てゐるし、スウェーデンは英國同樣手續にも入つてをらず、ノルウェーはそもそもEUに加盟してゐない。東側に屬した東南歐の諸國が次々にEU圏に望んで飲み込まれてゐるのとは對稱的である。同じゲルマンでも、カトリックに飲み込まれローマの後繼を稱したドイツとは異なり、ローマ・カトリックの「帝國」とは距離のあつた北歐は、英國を含めて、獨佛伊を代表とする「歐洲」とは相容れない何かを共通に持つてゐるのかもしれない。
推論の當否は兔も角、英國は、歐洲史において、缺かすべからざる重要な地位を占めてゐるにも拘らず、それは、常にゲスト・プレーヤーの地位であつた。特に氣を配つたのは、歐洲列強のパワーバランスであり、ネーデルラントの歸趨である。英國がネーデルラントを重視したことは、一つには、名譽革命時にウィリアム三世をオランダから迎へてゐること、もう一つには、ヴィクトリア女王に、ベルギー王家に連なるザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバートを配したことが擧げられよう。とはいへ、蜜月であり續けた訣でもなく、英蘭間に戰爭は何度か惹起してゐるし、その結果、和蘭の海上帝國は、大英帝國の前に逼塞してしまつてゐる。
結論らしい結論をつけようとするなら、英國は、良くも惡くもブリテン島に據る島國であり、結局大陸歐洲とは、どこか根本的なところで違ひを持つ。法體系にせよ、憲法典の有無にせよ、貴族院を保持する點にせよ、英國は、一番先に産業革命を成して先進を行く一面を持ちつつも、どこかで、とんでもなく保守的である。國柄といふ點では、大陸歐洲の各國もそれぞれに違ふ訣だが、その差違よりも大きいと感じられるのである。ドーバー海峽に地下トンネルが走るやうになつた今でも、ドーバー海峽で隔てられた兩者の差違は、埋まらないものらしい。
歐洲における國家觀
現在の國際社會における、主權國家の概念は、1648年のヴェストファーレン條約に遡る。この條約は、カトリックとプロテスタントの相克を切つ掛けに、宗教戰爭として惹起した三十年戰爭の媾和条約であるが、其の戰爭の基底には民族間の相克があらう。カトリックを奉ずるオーストリア・ハプスブルク家に、ボヘミアが反旗を飜したのが事の起りである。
ハプスブルク家がボヘミアの叛亂を潰したのも束の間、プロテスタント側は、ハプスブルク家の伸張を嫌ふフランスが音頭を取つて、英、蘭、スウェーデン、デンマークが「反ハプスブルク」で同盟するに至る。ここまでくると、宗教も民族も二の次で、大國によるパワーゲームと看做す方が適當であらう。フランスはそれでも當初は參戰には踏み込まなかつた。デンマークが退けられた後、スウェーデンが神聖帝國を脅かし優位に戰爭を進めたが、國王グスタフ二世アドルフが戰死するに及んでその勢いは止まらざるを得なくなつた。ここに及んで、スウェーデンは、プロテスタント側に、カトリック國であるフランスを直接參戰させる手に出て、成功する。最早、明かに教義など關係ない戰爭となつた訣である。
兩面に敵を抱へて、ハプスブルク家は窮地に追ひやられて行くことになる。スペイン支配下の和蘭、ポルトガルの獨立を許す羽目に陷り、スウェーデンにはボヘミアまで侵寇され、皇帝がウィーンに逃げ歸る有樣。一方、スウェーデンの後背を狙つたデンマークが、再び、今度は何故か皇帝側で參戰するが、結局スウェーデンに返り討ちにされた。
最終的には、スウェーデンとフランスが、ボヘミアに於いてオーストリアとバイエルンと決戰をし、バイエルン公が脱落。皇帝がどうにかプラハを死守してゐる間に、條約締結が成り、戰爭は終結した。
條約の結果として、次の點が、現在の國際關係においても重要であらう。
- スイス、オランダ兩國が神聖帝國から離脱し獨立を承認さる。
- 神聖帝國内各領邦は、主權、外交權を承認さる。
- 議會、裁判所におけるカトリック、プロテスタントの同權が規定さる。
- 皇帝は立法、宣戰、媾和、同盟締結等につき、帝國議會の決を經るを要することとさる。
これらにより、神聖ローマ帝國が「普遍帝國」となることは最早完全にあり得ない話になり、ドイツは聯邦國家であることが決定的となつた。フランスは勝利したものの、帝位への野望は潰え、ハプスブルク家は帝國皇帝としての性格よりも、後のオーストリア・ハンガリー二重帝國へ連なる自領經營の方に軸足を移すこととなる。スペイン・ハプスブルク家はオランダ獨立を容認せざるを得ず、衰退を露はにして、以降沒落し、やがてブルボン家に取つて代はられることになる。
ここにおいて、國家の上に立つ何らかの存在が否定され、主權國家といふものが最上の地位をしめる國際體制が現出したのである。この觀念が、今に至るまで、紆餘曲折を經ながらも續いてゐる。これが一番重要であり、歐洲が世界を蹂躙するに至り、全く世界規模の觀念となるのである。
もう一つの大きい觀念として、民族自決といふものがあるが、これもまた、歐洲の戰爭に由るものである。第一次大戰の媾和條約である1919年のヴェルサイユ條約で、ドイツ第二帝國は倒れ、ハプスブルクの二重帝國は分裂させられ、歐洲においての民族自決は一應成つたと言へよう。しかし、この時點で民族自決が許されたのは、其の範圍に留まり、列強の殖民地は、そのまま温存された訣だつたが。
ともかく、この二つの概念は、歐洲が元となつた訣である。そして、現在のところ、世界の秩序は、この二つを軸にしてゐると言つていい。歐洲で形成された國家の形が、世界中で、變形を伴つてゐるにせよ、使はれてゐるといふ點で、支那の華夷秩序よりも餘程馴染みのあるものとなつてゐる。
しかし、一方で、歐洲自身は、EUといふ、この二つを形づくつてきた流れに逆行するかのやうな代物を現出させつつある。大陸歐洲は、どうしても、古代ローマや、シャルルマーニュや、結局帝國としては中途半端に終つた神聖帝國に對する憧憬を滅せぬものらしい。嘗て大國からどうにかして獨立を勝ち取つたネーデルラントをして、逆に歐洲の首都たらしめようとしてゐる、このコスモポリタニズムは、歐洲でこそのものであらう。他の地域でこれを現出するのは無理である。アフリカ聯合は、所詮會議以上には成り得ないし、ASEANも、會議以上ではあり得ない。主權國家の概念は、世界に遍く通用すべき概念となつたが、EUといふものは、まさしく歐洲の特殊な事情によつて初めて形を成すといふ點を、もつと眞劍に考へるべきである。仲良きことは善きことかな、などといふ輕い氣分で、東亞細亞において聯合をつくらうといふ考へは、空論の極致である。
また、歐洲自身も、まだまだ、その見果てぬコスモポリタニズムに進むべきか、パトリオティズム、ナショナリズムに囘歸するか、迷つてゐる節がある。それは、嘗ての帝國の外縁部、即ち英、丁などにおいて顯著であるが、各國に共通して内在するものであらう。歐洲史において、死鬪を繰り廣げ、歐洲史を自分達の戰爭史にしてゐる感すらあるドイツとフランスが、大人しく一つに纏まつてゐられるのか、それもまた、興味深いところである。
履歴
- 平成20年7月28日執筆開始
- 平成20年8月7日脱稿
- 平成20年11月10日一部修正
- 平成23年3月21日誤字修正
- 平成23年5月27日誤字修正