英國史と英國議會制成立についての論考
始めに
この文書は、平成23年3月21日にTwitter上で論述したものを、適宜補足しながら再掲するものである。
吾人は其の前日より、「國民主權」の是非、帝國憲法の是非などについて論爭に加はりたる所、遂には英國の主權などに話が及び、英國の國制について歴史を紐解くの要を感じるに至りて、英國史について長々とツイートしたものである。
ハノーヴァ朝成立迄
聯合王國(英國)の今の王統は、彼の國が女子にも繼承權を與へて來たから日本の皇統とは大きく異なるが、1066年のノルマンコンクエストでウィリアム一世(King William I)がイングランド王に即位して以來のものと言つて了つて良い。
但し、注意しなければならないのは、ウィリアム一世は、フランスに於いてはノルマンディー公ギヨーム二世(Guillaume II de Normandie)と稱した貴族であり、フランス王の家來といふ立場であつたといふことである。
其の後もイングランドの王樣といふのはフランスに領土を持つてゐて、遂にはフランス王位を巡つて百年戰爭をやらかすに至る。尤も當時は封建時代であつて、國民國家など存在せず、王侯は婚姻の持參金代はりに領土を遣り取りするやうな頃合であるから、殊更珍しく思ふやうな話ではない。
ともかく、イングランドはその百年戰爭に敗退して大陸の領土を殆ど失つて了つた。皮肉にもこの敗戰によつてイングランドは「獨立」した、とさへ言はれる。勝つてイングランド王兼フランス王なんてものが出來てゐたら、イングランドはフランスの一部だつたといふ言説もある。
百年戰爭で大陸から叩き出されたイングランドでは、薔薇戰爭といふ內戰の後、ヘンリー七世(King Henry VII)がチューダー朝(Tudor dynasty)を開いて一旦安定を見る。
其の後を襲つたヘンリー八世(King Henry VIII)が、次の劃期を、妙な形でつくることになる。即ち、後繼者を得るべく「離婚」するためにローマ・カトリックと對立して、最終的には英國教會(The Church of England)をつくるに至つたのである。
ヘンリー八世は、自身の結婚とか後繼者とかいふ、個人的な思惑の絡む甚だ俗つぽい理由で國教會をつくつた。しかし、彼の我慾の結果として、イングランドはローマ・カトリックの宗教的權威の下から脱して、「帝國」となつた。少くとも自稱するに至つた。
ここでいふ帝國といふのは、皇帝を戴く國といふよりは、神聖ローマ帝國と竝び立つ國、位の意味である。
亦、竝び立つと言つても、實力で竝び立つとかいふ話ではない。日本人にとつて解り易い喩へをするなら、支那王朝に對して日本が天皇を戴いて「そつちの皇帝も天子だがこつちの天皇も天子」と言ひ張つたのと似たやうなものである。カトリックの教皇に權威附けされるローマ皇帝に對し、國教會の首長のイングランド王は遜色ない聖俗の權威を持つてゐるんだぞ、と見榮を張つた訣である。
とは言へ、つくられた國教會が直ぐに定着した訣ではない。メアリー一世(Queen Mary I or “Bloody Mary”)がスペイン王フェリペ二世(Felipe II de España / 婚姻當初は王太子)と婚姻してカトリックに戻らうとしたこともある。しかし、結局、エリザベス一世(Queen Elizabeth I)が無敵艦隊を叩かせて、國教會で行くことになつた。エリザベスが崩じた後、スコットランドからジェームズ一世(King James I / スコットランド王ジェームズ六世)を連れて來て、イングランドとスコットランドは同君聯合となつた。
スコットランドからやつて來たジェームズ一世の後を襲つたチャールズ一世(King Charles I)は、統治が上手く行かずに、最終的には清教徒革命で處刑されて了つた。そして、護國卿オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の下での共和制となる。然し、結局の所は其の共和制は上手く行かずに王政復古した。ところが、ここで王家とカトリックとの關係が問題化して、最後には名譽革命が起つた。
名譽革命では、議會が王樣を叩き出して、王女(メアリー二世 / Queen Mary II)と、婿のオランダ統領(イングランド王としてはウィリアム三世 / King William III)を國王に擔ぐ、といふ事象が起るに至つた。このときに定められた王位繼承法(The Act of Settlement 1701)により、今でもカトリックは王位から排除されてゐる。本人がカトリック信者であつたり、さうでなくてもカトリック信者と婚姻したりすれば、王位繼承權が消滅する。
メアリー二世の妹、アン(Queen Anne)が崩じた後、直系が絶えた爲に傍系から王樣を連れて來ることになつた。そこで、ドイツのハノーヴァからジョージ一世(King George I)が招かれるに至る。ジョージ一世はドイツ人で、ハノーヴァの領主(ハノーヴァ選帝侯)を辭めた訣でもないので、イギリス國內統治には餘り關はらず、大臣に英國の政治を丸投げした。これが元で、今に續く議院內閣制が始まつた。
ハノーヴァ朝成立以後
イギリスの內閣制度といふのは、王樣をドイツから連れて來て、しかもその王樣はドイツの領邦貴族も續けてゐる、といふ狀況で生まれたものである。餘所から來たくせに妙なやる氣を起して悶着を起さず、地元生まれの大臣に任せておけばいいや、位の氣分で濟ませたのが、良い結果になつたと評價してよい。
そして、議會が國王を追ひ出したり、餘所から連れて來たりしてゐたから、それをよしとする連中と、國王に對してそれは一寸酷いんぢやないかといふ連中が爭つた。トーリーとホイッグの對立である。ここから、英國の政黨政治の萌芽が生まれた。
勿論、これは今の政黨政治と同列のものだとは言へない。しかし、イギリスの議會政治に、確かに何かを遺したのも事實だと思ふ。
ドイツから招いたハノーヴァ朝も、當初は大臣に政治を丸投げしてゐたが、代を重ねて英國生まれの王を輩出するに至れば、王樣も王樣らしいことをしたがる。三代目のジョージ三世(King George III)は政治に對する口出しを再開してゐる。ときに議會の意に反した人事をすることもあつた。ヴィクトリア(Queen Victoria)の代でも、女王が組閣を流したりしてゐる。
ヴィクトリアの後も、まだまだ國王といふものは政治と密であつた。孫のジョージ五世(King George V)は、內閣と貴族院の抗爭に際し、多數の貴族を新規敍任するぞ、と大權行使をちらつかせて見せ、結局、貴族院が1911年の議會法(The Parliament Act 1911)による權限縮小を呑むやうに仕向けたりしてゐる。この時、王は實際には大權を行使することなく、其の意圖を達したのである。
エリザベス二世陛下の現代
さて、そろそろ締めに入りたい。となると當然に女王陛下(HM The Queen)について書くべきであらう。
しかし、女王陛下について言及するとなると大變である。女王陛下が普段から國政に容喙されてゐるといふやうなことは聞かない。しかし、女王陛下は何年かで交替する首相と違ひ、長い間に渡つて、より高いところからものを御覽になつてきてゐる。
具體性が少しく乏しいが、以下のことは言へると思ふ。
女王陛下は「君臨すれども統治せず」を實踐されてゐると雖も、決して無力ではない。女王としての長い經驗の蓄積による臣下への「助言」然り。行使されることはないかも知れない國王大權の持つ隱然たる力然り。英國は、かういふものを女王陛下から引き出して實際に使ふことが出來るのである。
米國の大統領は最長で8年しか務めることが出來ない。しかも其の任期の間に選擧の洗禮を何度も浴びる宿命にある。どうしても短期的な問題への對處に煩はされざるを得ない。おまけに、彼は任期中は最上位者の立場である。部下から色々な報告や助言を受けるが、所詮部下であるから、彼よりも高いところから何かを助言してくれる人は、ゐない。
對して英國はどうか。英國の首相は終身の國王の助言を受けることが出來る。もし彼が拙い判斷をしたら、國王は注意を與へることだつてあるだらう。そして、さういふ助言の類を採用するかしないかは、議會の多數黨の代表である首相が彼の責任に於いて判斷する。國王、或は王室累代の蓄積と、民意を代表するものとを、上手く均衡させて使へる可能性が、英國にはある。
英國內部のことからは逸れるが、女王陛下のお立場は更に複雜である。英國王であると同時に英連邦の首長であり、英連邦加盟の幾つかの國の國王でもある。
女王陛下の御代になつてからでさへ、濠洲では、代理人たる總督が、上下兩院の「捻れ」で豫算案を通せなかつた首相が總辭職も解散總選擧もしないと意地を張るのを罷免したことがある。女王陛下が直接大權を行使した訣ではないが、君主大權が政治的混亂の收拾の爲に行使されたことは、銘記しておいて良い。
まとめ
英國の君主制、或は議會制を見ようとした場合、ここまで書いたやうな彼の國の歴史をざつくりでも見なければ、其の肝の部分には至らないのではないか。さう思つて少々長々しくなつた上に不勉強なことも多くて讀み辛いかも知れぬものを書いた。その記述はここまでとしたい。
吾人は日本人で、元々は日本のことを考へる爲の參考として英國について分析をした積りである。だから、次は、日本のことについて何かしら書ければ良いと思ふ。
履歴
- 平成23年3月21日 元發言轉寫・文章修正
- 平成23年4月5日 脱稿