共和制或は民主制の缺陷に關する論考
序
抑も共和制と民主制は同じ概念ではない。一例を擧げるなら、中世ヴェネツィア共和國は、共和制ではあつたが、決して民主制ではなかつた。
しかし、現代に於いて、寡頭制的共和制を採る國は、ないか、あるとしても無視出來るやうな状況と言はざるを得ず。よつて、ここでは敢へて纏めて論じることにする。
共和制の利點と缺陷
共和制の定義を一應しておくなら、君主を置かざる政體といふことにならう。概ね、元首がある種の選擧を經てその地位を得る政體としてもいいかも知れない。尤も、選擧王制といふ政體も歴史上は存在したし、共和國元首が事實上一つの家系で世襲された例もあるので、どこに分水嶺を置くのかは、極めて微妙である。
共和制を一番端的に表現してゐるのは、古代の共和制ローマであらう。彼の國では、毎年、元首相當の執政官を二名選定して國政に當たらしめてゐた。尤も、彼の國が即ち民主制であつたかといへば、否である。勿論、ローマ市民にも、執政官選出において關與する餘地はあつたが、就任する人物は悉く元老院階級であり、要は貴族と言つて差し支へなかつた訣である。
共和國元首の地位については、年限がある場合が多いが、終身といふのも、珍しいものではない。ヴェネツィアの統領は終身制であつたし、獨立當初共和制を標榜した和蘭も、結局は現王家であるオラニエ・ナッサウ家が總督職を世襲したのみならず、ヴィレム三世に至つては、イングランド・スコットランド・アイルランド女王メアリー二世の共同統治王として大ブリテンに君臨すらしてゐる。
共和制の利點は、政治的能力を確かに持つた人間が、血縁によらず國家の最高責任者としての地位を得ることが出來る點が一番大きからう。世襲君主制で屡々現出する幼君は、共和制ではまづ見ることはない。反面、その地位に耐へられる人物がゐない場合に、君主制ではそれでも君主を擁することが出來る場合が殆どだが、共和制では、それはなかなか難しい。元首の選定方法にもよるが、君主制に比して、元首選定に於いて權力鬪爭を惹起する可能性も大きい。勿論、あらゆる政體において、權力鬪爭を防止することは不可能であるから、これを擧げるのは不適當かも知れないが。
もう一つ指摘しておくべきは、元首の權限の強さにもよるし、元首となつた個人の資質によるが、共和制であるから暴君が生まれないとは決して云へないのである。古代ローマの共和制末期に民衆派と元老院派が權力鬪爭をしたときの、血で血を洗ふ鬪爭はその端的な例の一であらうし、イタリア國王の宰相であつたムッソリーニは別として、ヒトラーやフランシスコ・フランコは、共和制が現出した獨裁者である。その手の獨裁者は、現在においても、枚擧に暇がない。
筆者は、今、共和制を採る國家が君主を戴いて、共和制を悉く廢止せよといふ立場ではない。但し、共和制が君主制に優り、故に君主制を廢して共和制にするのが正しいと云ふ立場には、反對する。結局、獨裁的共和國元首が現出して憚らないのは、その國家が、詰まるところ獨裁的・強權的な元首によらなければ到底治めきれないといふ事情もあると考へる。ここから先は、共和制の問題といふより、寧ろ民主制の問題になつて來ると思ふので、ここで一旦締める。
民主主義の利點と缺陷
民主主義の萌芽は、古代ギリシアにあるといふのが一般的認識であり、ここでも敢へてその立場を採る。
その前に民主主義の定義をしておくと、被支配者たる民衆が、政治上における最終決定權を握つてゐる政體、といへよう。
ここから先、論を進めるにあたつて、民主主義が正しい政體であるといふことが前提になつてゐる感のある現代において、敢へて、これに反論しておきたい。筆者もまた、政治の究極的目標は、國家國民の安全を保障し、その幸福を増進するところにあると信ずる。しかし、これを達成するために最善の方法は、民意を直接政治に反映させることかと云へば、筆者は疑問を感じざるを得ない。
歴史を省みても、民意を尊重したが故に、却つて民衆の利益を損なひ、國家を損なつた例は多い。ナチスが擡頭したのは、ナチスがドイツ國民を脅迫したからではなく、扇動して悉くナチスの支持者としたが爲である。先の大戰において、支那事變の收拾の失敗に決定打を打ち、結局對米戰爭に前進せざるを得ないところまで國を持つて行つたのは、當時の國民から多く支持を集めた公爵近衞文麿である。國民の選擇が、常に誤つてゐる訣はないが、しかし、常に正しい訣でもない。民主主義の限界は、結局、民衆は政治におけるプロフェッショナルではない、といふことと、扇動に流されやすい、といふところに盡きる。
筆者は、民主主義に優る新たな政體を、人類は少くとも模索する努力をするべきであると思ふのである。米英は、中東を中心に、民主化することを大義名分に戰爭をしたが、結局、うまく行つてゐるとは言ひ難い。民主主義がそれなりに機能するには、民衆が政治的に成熟することが必要であるし、その前提となるメディアが、爲政者から獨立してゐる必要がある。ただ、本邦の現状を見ると、メディアが獨立してゐるのはいいのだが、或る種の權力機構と化して、輿論を好き勝手に操縱しようと云ふ意圖が見え隱れする邊りが實に拙いと云はざるを得ないのだが。この邊りの問題を克服できる政體を、人類は案出できるのか、否か。少くとも、現状の民主主義に安住することが許されるとは思へない。
民主主義について、我々は、サー・ウィンストン・チャーチルが言つた、民主政體は今まで行はれたあらゆる政體を別にすれば、最惡の政體である、といふ言葉の意味を噛み締める必要があると思ふのである。チャーチルは、民主主義をベターなものだと思つてゐたに違ひない。少くとも、非民主的なあらゆる政體に優るものであると。しかし、現状の民主政體で人類が留まることについては、否定的であつたのだらうと思ふ。でなければ、わざわざ、囘りくどい言ひ方をせずに、素直に民主主義は最上の政體である、と述べれば濟んだ筈なのだから。
ここまで、民主制の、負の面について述べたが、正の面にも觸れておかなければフェアとは云へないし、筆者が全面的に民主制を否定してゐると云ふ誤解にも繋がる。といふことで、筆者が、民主制の利點と考へるところを、最後に述べておかうと思ふ。
一つは、コントロールさへ誤たなければ、民意を施政に反映させるのには適してゐることである。一つは、民衆に、施政に參加してゐるといふ自覺を與へるのに寄與する點である。全く自分達の關はりのないところで施政が行はれるとなると、民衆は、その施政が短期的なものにせよ、自分達に不利益であると看做せば、これに反抗する氣分を生じるものであらう。選擧と云ふ形ではあれ、政治に少しでも關はりを持たせることで、施政の責の少くとも一部は民衆にあるといふことで、施政者と民衆の間の間隙を少しでもうずめるのに、民主制は有效である。
但し、これだけは註記しておきたいが、筆者は、日本國内においては、君主制を擁護するものであり、その範圍内で民主的政治が行はれることをよしとするに留まることを、強調しておきたい。民主的政治運用と、君主制は、兩立し得るものであると考へるし、兩立しないとして君主制の打倒を目指す向きには反對する。
註
本稿は平成20年8月24日執筆。